出会い頭に覚えた、一瞬の不思議なスパーク。
瞳の奥に映る、自分と良く似た危険な色を覚えた。
―――それは野生の勘。
馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうけれど、きっといつか、また会う気がした。

 

あぶない刑事 Stare at Beast 前編

 

チャチでいかがわしい店が列挙する薄汚れた雑居ビル郡の一画に、彼のその目的地はあった。サウナと銘打たれた安っぽい看板に彼は目をやり、それからゆったりとした足取りで歩を進める…それは獲物を徐々に追い詰めるのにも似た仕草だった。
口にくわえた煙草を足元に投げ捨て、靴先で踏み消す。長身の彼が纏う黒い上質なコートが、不意に通りを吹き抜ける一陣の冬の風に揺れた。
チャコールグレーの薄いスモークが貼られた自動ドアをくぐり、フロントに立ち寄ると、そこに立つ青年は一葉に気だるげに出迎える。カウンターに手を置きながら身分を明かすと、その青年は目を見開き、それから窺う様に訪れた相手の顔を見上げた。それに対し、彼は苦笑しながら、この店そのものに用がある訳ではない、と前置いて用件を告げる。まったくもって柄じゃない―――おずおずと渡されたキーを受け取って、彼は身を翻した。
ロッカールームを出て廊下に出れば、自分がここに至って似つかわしくない人間である事を改めて覚えた。所在なさげに手首に巻いたリストバンドを反対の手で擦る…通りかかりに含みのある目を向けて来る男から目を反らしてやり過ごせば、やがて彼はまた歩き始める。仮眠室と書かれたドアの前で立ち止まると、中から聞こえる物音に思わず顔をしかめた。想像に難くない光景がこの安っぽく薄いドアの向こうで展開されているのが容易に分かるから―――仄暗い電灯の下で行われる一頻りの狂宴は、手軽で心地の良い快楽の場だ。彼等はその為の相手を探しに来るのだから。
そして、彼が今日、探している男もこの中にいる。
開くドアから出てきた二人組の後ろ姿を眺め、彼は一度うつ向いてから彼等を追った。まだ少年の様相をかもす若い色白の青年が別れて風呂に向かうのを見やり、まっすぐに休憩室へ向かうもう一人の男の後を間を開けながら続く。彼が用があるのは、そちらだった。
「おまえがそう言う趣味だとは思わなかったがな」
不意に舞い降りる声は、感情を一切映さずに紡がれる。予想通りの相手の姿に、男はそちらをちらりと見やってから再び手元の雑誌に目を落として言った。
「そう言う鷹山さんこそ、こんな所まで人を付け回してくるなんて…思いませんでしたよ」
休憩室の安価なソファに身を置く彼は、程なく一人分開けて隣に腰を降ろした鷹山のリストバンドに目を向ける。
「モテるでしょう?」
「生憎、そっちの趣味はなくてな」
「じゃあ、ここには来るべきじゃない」
「仕事なんだよ」
鷹山は当然な意見に納得しながらも、何処か憮然と言い返した。それから、顔を向けずに口を開く。
「松山、正直に話せよ。今ならまだ間に合うぜ?」
「鷹山さんは俺のタイプじゃないんで、お断りしますよ」
「そう言うなよ。俺だっておまえはタイプじゃないが…署までデートしないか?」
笑えないジョークにも、猥褻雑誌に顔を向けたまま無視を決め込む松山へ、彼は提案する様に手を軽く振る。
「嫌なら、手錠付きだ」
「何の容疑で?」
「未成年淫行罪」
「………未成年…?」
「法律上は取締対象だな」
未成年相手なら、合意の上だろうがなかろうが罪に問われるのは、この法治国家における決まり事。
始めは微かに嘲笑めいた笑みを表す松山だったが、鷹山の言葉にすぐに顔色を変える。小狡いやり方に鋭い目付きを向けられ、鷹山はようやく細めた目で笑みを浮かべた。

品のない雑多な街並みは、まるでここが横浜とは思えないほど古びていて…大下は自らがハンドルを握る覆面車の中で駄々っこの子供みたいな表情を浮かべた。
「パパぁ、俺…気が進まないんだけど」
「しょうがないだろう、仕事なんだから。俺だって嫌だよ」
パパとあだ名された彼は助手席から隣へ、聞き分けのない子供を叱る親の様な…と言ったら言い過ぎだが、お人好しな兄の様に答えた。そんな吉井のしかめられた顔をちらりと見やり、大下は肩をすくめる。
「ハイハイ、分かってますって。お仕事だもんね」
色めいた街並みは普段彼が私用に行く場所とは全然異なっていて、仲良く同性同士がそぞろ歩く姿が通り過ぎて行く。
駅前の繁華街から少し奥に行った通りに彼等はいた。男二人で車にいれば、ここでは違う意味に取られてるのは至極当然で、それが居心地悪い。
何も好き好んで来た訳ではないのだ。ノンケな自分達がこの場に留まるのには、理由がある―――神奈川県警港署、捜査課刑事と言うのが彼等の肩書きだ。そして彼等は今、追っているヤマに関係した重要参考人が逃げ込んだビルを前にしている。つまり、ホシを捕まえる為に、こうして自分達には居心地の悪い場所にいる訳だ。
「おい、誰か出てきたぞ」
「ん?」
吉井に促されて目を向けた大下の視界に、堅気には見えない二人組が揃って歩く姿が映る。彼は興味なさそうにハンドルへもたれかかって、「"出入り業者"じゃないの?」と冗談を口にした。こんな店が並ぶ場所だ、所場代でも集めに来たのだろう。或いは立ち退きを促す地上げ屋か…急ぎの先客がいるから、今は見逃してやろうと彼は笑みを浮かべた。
「まあ、関係はなさそうだな」
答えた吉井に、大下はちらりと目をやった横道を指差す。
「それより、あっち…俺達の本命」
「あ!行くぞ、大下」
「了解」
慌てて車から降りる先輩刑事に続いて、彼もドアを開けた。
現れた刑事の姿に気付いて走り出す男を、吉井は「待て!」と叫んで追う。男は伸ばされた相手の手を辛うじて避けて転げる様に身を翻すが、目の前に回り込んだ大下に難無く襟首を掴まれた。
「離せ!離せって…離して下さいよぉ…」
「いちいち世話焼かせんなよな、ったく」
そう言い放つ声は軽いが、少しも笑わない大下の目が鋭く射抜く。そのまま乱暴に壁際へ放られて、もたつく足で立ち止まった相手を吉井は確保した。
「強制猥褻罪で逮捕する」
「万引きに覗き、付け回しと…余罪てんこもりだな?ま、後は署で聞いてやるよ」
かけられた手錠に抵抗を諦めた痴漢男を、彼等は車へと連行した。

唐突に始まった捕物にざわつく人混みを避けながら、苛立たしげに小さくため息を吐く…鷹山は斜め前を行く松山から目を離さないように歩きながら、顔をしかめた。
余計な連中―――もっとも、縄張りを荒らしたのは自分の方だから何も言えないが。
彼も先程の騒ぎを起こした連中と同じ、神奈川県警所属の署轄刑事である。良くも悪くも、見えないと言われるが。
「それで、鷹山さん。俺は何処まで行けばいいんです?」
ふと投げられる質問に、鷹山は相変わらずの無愛想な声を返す。
「知っている事を全て話すなら、その後は何処へでも行けばいい」
「分かりましたよ。ここまで来れば俺も今更悪あがきはしません」
「賢明な判断だ。ついでに、俺が何を聞きたいかも分かってるだろう?」
乾いた笑いを洩らして振り向く松山に、鷹山はサングラス越しの表情の見えない顔を向けた。"喰えない"のはお互い様…そんな風に睨み合えば、先に折れたのは松山だった。下っぱのくせにいっぱしの幹部気取りをしているだけあって、頭は悪くない。
「お探しの高石ですがね、こっちとしても探しているんですよ。何せ組の金持ってトンズラだ。皆、血眼で探してる。ただじゃ渡せませんね」
無駄な事と分かっていながらも紡がれる言葉は戯言で、鷹山は「ただとは言ってないぜ?」とうそぶく。
「長生きして自分好みの相手を抱きたきゃ、余計な事は言わない方がいい」
再び洩れる、小さな笑い。
「鷹山さん、刑事に向いてないんじゃないか?」
「おまえのヤクザな商売よりは、向いてるさ」
端から見れば、どう見ても堅気には見えない同士。前々から松山はそう言うが、巌として認めない相手には苦笑しか浮かばない。鷹山が冗談を何処まで冗談と受け止めているのか、松山には分からなかった。
上着から取り出した煙草に火を付けて、彼は僅かに自分より背の高い鷹山を見上げる。
「あいつのヤサは他にもあってね、昔から馴染みの女がいるんですよ。ウチの構成員になる前からの…まだ行ってないでしょう?」
「場所は?」
「新山下から南に下った所。でも、あんたの管轄外じゃあ…」
「おまえには関係ない」
「そりゃそうだ」
警察同士の縄張りだなんだ等、所詮ヤクザ稼業にはどうでもいい。ついでに言うなら、事件の縄張りなんぞも関係ない。だから松山は、女の特徴と正確な住所を話すと自分を捕えた無愛想な刑事から背を向けて離れて行った。
つまらない三下にかまっている暇はない―――そう何度も思っては、その都度叩き付けられる組織のしがらみに、彼は苛立ちを隠せず煙草を取り出す。どうする事も出来ない焦りを、すったマッチで付けた煙草の煙と共に吐き出した。
高石が持ち逃げ金はただの組織資金ではない。東南アジアから入ってくる大麻を手に入れる為に組から盗んだ大金である。本来は奴らの様な組織…暴力団が手を出すはずもない、純度も低い安っぽいシロモノだ。組ではシャブ様の金だったのだろうそれを、高石は自己開拓したルートで一稼ぎを目論だ訳だ。
―――後先考える頭もなく、な。
金も力もない、食いっぱぐれるか鉄砲玉になるしかない下っぱの安易な計画は穴だらけで、今や逆に命すら落としかねない状況。だから、命を助けるのと引き替えに知りうる組織の内情を全て吐かせるのが目的だった。
下っぱでは情報と言ってもたかが知れているが、まあ、無いよりはマシと言うもの。ついでにヤクの密売を差し止めて、後ろ暗い奴らの資金を取り上げて…いけ好かない奴ら全部に打撃を与えてやろう。せいぜい、今の自分が出来る精一杯の、自分が身を置く組織への挑戦でもある。
不本意だが、このヤマを県警か本庁の奴らに奪われるのも時間の問題だった。だからこそ、自分の手でカタを付けたいと思う。
―――クビを覚悟だが。
前回まででもう既に減俸と謹慎と厳重注意をありがたく頂戴していた鷹山だが、懲りずにこの有り様なのだから…如何ともし難い。もっとも、しでかした回数と内容を思えば制服への降格が免れただけでもマシだと言えるだろう。制服警官が悪い訳ではないが、そうなるとやりたい仕事が出来なくなるのが痛いのだ、"趣味で仕事をしている"と自称する彼には。
―――まぁ、今の俺がハコ番なんて想像つかないがな。
それから彼は雑踏の中を歩き出す。
いつの間にか収束した騒ぎは街をいつもの顔へと戻し、彼もまた、何も知らない人混みに紛れて行った…その横を通り過ぎるレパードには気付きもせずに。
高石のヤサには何としても、奴らより先に行かねば―――組から口封じとケジメの為、消される前に。だから、妙な焦燥感に鷹山は足を速める。
「必ず食らい付いてやるさ…」
おまえら銀星会に、と仇の名を彼は呟いた。

 

麗らかな午後の日射しがブラインド越しに差し込む港署―――近藤はデスクを挟んで目の前に並び立つ二人の部下に労いの言葉をかける。
「はい、ご苦労さん」
一人は鷹揚に頷くが、もう一人は徐に不平を口にした。
「課長。今度からは嫌ですからね、俺」
「犯人逮捕に成功して、何が不満なんだ、おまえは?」
見上げた先のふくれっ面へ彼は問う。
「痴漢も立派な犯罪だぞ、被害者の事を思え」
「そりゃそうですけど…」
言って、大下は閉口した。
幾ら言っても栓無き事…近藤の言葉は正しくて、それが彼にも分かるから反論はない。だから、諦めて踵を返す。
いつもの風景に戻りつつある署内で、田中は周りにいる同僚に向かって不意に口を開いた。
「そう言えばな、近頃騒がしいらしいぞ。やれヤクの密売だ、やれ資金を下っぱに盗まれたって」
そう言いながら田中は、扇子を忙しなく扇ぎながら同僚刑事達の顔を見渡す。
「ほら、銀星会とか言う暴力団」
「ああ、あの?」
と思い起こして人指し指を上げた吉井の横で、「あっそ」と大下は興味なさげにさっさと身を翻す。それを見て田中はぱたりと閉じた扇子を、歩き出しかけた彼に向けた。
「いつもいつも、どんな事件だってつまらないって言ってる割には食い付きが悪いなぁ。暴力団だぞ?」
「だってさ、こ〜んなイカツイ顔が並んでるのなんか見たって仕方ないでしょ」
こんな、と繰り返してわざと顔を歪ませて見せるおどけた大下に、吉井は肩を落として大きなため息を吐く。対して大下は、にやりと満面の笑みを浮かべると無駄に胸を張った。
「もっと色っぽい事件がいいね、俺は」
「あら、どんな?」
背後からかけられた声に振り向けば、そこには煽情的に胸元が大きく開いたカットソーとすらりとした脚を惜しげもなく披露する膝上丈のタイトスカート姿の女性が、モデルよろしく佇んでいる。大凡、警官には見えない彼女に大下は「松村課長!」と言った。
「そんな事件、大下さんには任せられないわねぇ」
「ど、どうしてですかぁ?」
含みのある妖艶な笑みに思わずたじろぎながらも、彼は迫力ある年上の上司…上司と言っても直属ではないお隣の少年課課長だが…を見やる。彼女は赤い爪の手をひらひらと振って、すねた子供の様な表情を浮かべる彼に微笑んだ。
「おイタするでしょ?」
「しませんよ。これでも刑事ですよ、俺」
「ん〜、分かった分かった」
そう言ってあしらう様に笑いながら自席へと戻って行く松村を、大下は剣呑な目付きで眺めた。どうやら彼女には、一人前の男の年齢になっても未だに大下が普段相手している青くさいガキと同じらしい。まったくもって悔しいが。
「まあ、どちらにしても」と一度区切り、「マル暴の仕事だからな。県警が動いてるだろう」と吉井は言う。それもそうだ、と田中は頷いて黙るとその話題は途絶えた。
「県警とは別に」
唐突な発言に、その場の全員が動きを止めて言った人物を振り返る。それまで黙っていた近藤は、その終焉した話題に口を挟んだ。
「どうやら、いっかいの署轄刑事でありながら、嗅ぎ回ってる奴がいるらしい」
くるりと椅子ごと背を向けた彼は、苦い声を出して呟いた。大下はそちらに顔を向け、「困ったものだ」と続ける近藤に茶化す様な声色を紡ぐ。
「あらあらあら、お言葉ですが課長。刑事の鑑じゃないですか?自分の手で捕まえるって…」
それを遮る様に近藤の声は僅かではない怒気を孕んで発せられる。
「毎度の命令無視に規定違反、厄介な奴はおまえだけで十分だ!」
「はあ?」
いくら何でもこの剣幕は普通ではない。目を瞬かせて体ごと向き直った大下に振り返り、深い深いため息を吐いた後に近藤は唸る様な声で呟く。
「今度、ウチに来る事になるかもしれん」
「…え?どう言う事です?」
大下は意味が分からず身を乗り出すが、それから飽々した様子で近藤は弱った様に首を振った。
「その問題刑事が来月付けで移動してくるかもしれん、そう言ってるんだ。この港署に、な。打診があった」
「あらら…」
悩みの種が増えそうで頭に手を宛てる上司へ、大下は言葉もなく肩をすくめるしかなかった。
『発砲事件発生、発砲事件発生!新山下町で銃声を聞いたと通報がありました。急行して下さい。繰り返します』
「銃声…?」
「行くぞ、大下」
「了解!」
のどかささえ何処かに顕す空気を裂いて通信課の好美が発する言葉に、身を翻す面々。頷いて促す近藤の前から、彼等は駆け出して行った。

けたたましいサイレンを鳴り響かせて、パトカーと覆面車が走り抜けて行く―――何事かと振り返る鷹山の隣をそれらは通り過ぎた。見やれば彼等の行き先は自分が向かう先と同じ方向で、次々と横付けされる車両にサングラス越しの目を怪訝に向ける。
辿り着いた先は、今時珍しいぐらいの安普請な古いアパートだ。その2階へと、車から降りて外階段を駆け上がって行くコート姿の男達を見る。既に敷かれた境界テープには野次馬が群がっていた。
鷹山はそんな人垣に混じると、その内の一人に尋ねた。
「何があった?」
「さあ、銃声がしたって誰かが…あ、あれ!」
慌ただしい人の目を追えば、運び出されるシートに覆われた担架が視界に映った。
―――遅かったか。
手帳を見せて入ってもいいが、面倒になるのは目に見えている。警察の縄張り意識は予想以上に強い…だから犬だとか揶揄されるんだ、等と彼は皮肉る。それはともかく、彼がしている捜査は越権行為に等しいのだから、しゃしゃり出る訳にも行かなかった。
目前で目標を消された歯痒さを確かに感じながら、鷹山は面倒に巻き込まれる前にその場から踵を返した。

「こちら大下。現場から射殺死体が発見されました。どうぞ」
『分かった。とにかく現場検証が終わったら署に戻って来い』
「りょーかい」
大下は車外で話していた無線を切った後、口元を歪めて車に寄りかかる。まったく、どうなっているのか…先ほど署内で話題になった渦中の人物が恋人と一緒に死体になって発見された。まだ生々しい現場は血も乾かず、遺体には体温すら残る。
「おーい、大下!」
呼ばれて身を起こした彼は、同僚の元へと足を向ける。
「とりあえず、検証終わったら戻って来いってさ」
「分かった。あ、それとこれは…」
そんな事を話す刑事達の横を、見飽きた野次馬達が通り過ぎて行く。取るものもとりあえず飛び出して来た近所の主婦や学生風の若者、通りがかりのサラリーマン…それと共に鷹山も現場から離れて行く。
不意に不安とも直感とも付かない気分につかれて、大下は弾かれた様に振り返った。
「どうした?」
「いや…」
尋ねる吉井に、彼は誤魔化す様な曖昧な笑みを浮かべて事件へ話題を戻す。
何を見た訳でもない、何かされた訳でもない。それでも、消せない不可思議な疑念は自覚したよりも強くて。
―――なんだろう、この落ち着かない気分は。
「とにかく、ヤスさんの鑑識結果を見ないとな」
厄介な事に、とぼやく同僚に大下は苦笑を浮かべた。
どちらにしても、銀星会絡みなら県警が口も手も出して来るだろう事は明らかだ。彼等から主導権も捜査権も奪い取って行くだろう。下手したら、いいようにくだらない雑用へ駆り出されるかもしれない…甚だ、不本意な事に。
「それも仕方ない、か。俺達、真面目なお巡りさんだもんなぁ…」
皮肉屋の笑みで呟く。
「何か言ったか?」
「別に」
尋ねられた相手をはぐらかし、彼は先に上へ行った田中達を追う。
両側に姿勢良く立つ制服警官を配置して開け放ったままのドアをくぐり、フラッシュに照らされる狭い室内を眺める。運び出された遺体の代わりに置かれた白ロープの人型が二つ敷かれ、そこの畳に広がった染みが生々しいにも関わらず妙に現実感を損なう。
「さ、お仕事しよーっと」
無駄にやる気を奮うと、田中は訝しむ目で突っ込んだ。
「してないのはおまえだけだって」
白手袋を片手に彼は、「ひでぇなぁ、ナカさ〜ん」と声を洩らした。

 

寒さを嫌う様にコートの襟を立てて、彼は街角に立つ。程なくして現れた目的の人物を見付け、彼は歩み寄った。
「松山」
「…鷹山さん」
聞き慣れた低い声にゆっくりと振り返る顔が、話しかけて来た相手が知人と分かるや否や怪訝さを消す。けれども、代わりに迷惑げな色を映した。
「そんな顔するなよ、俺達の仲だろ?」
鷹山のふざけた声色に松山は小さく笑い、険しい顔の手下を追い払ってから口を開いた。
「ここじゃ何ですから、何処かで飲みませんか?近くに良い店があるんです」
打診する目は余計な波風を嫌う様に厳しく、この場から離れる事を熱に語る。
―――当たり前だ。
松山が勝手の出来ない"親"の事務所前を、サツにうろつかれては何かと困るだろう。だからこそ鷹山は、滅多に足を向けないここへわざわざ出向いたのだ…どうしても口を割りたくなる、プレッシャーをかける為に。
「如何です…鷹山さん?」
「いいだろう。聞きたい事はたくさんあるからな」
そう答えた鷹山を松山は先導した。
馴染みだと言う店は意外にも良い雰囲気で、そこに居る女達も悪くはない…酒を作り終えたホステスを席から外し、松山は水割りのグラスを手にした。
「聞いてますよ。高石の件でしょう?」
「話が早くて助かる」
ふかす煙草を片手に、鷹山は呟く。
「消された、そうだろ?」
「それを俺に言わせるんですか?」
いつもの乾いた笑い…揺らしたグラスの中で軽やかに鳴る氷を見下ろし、彼は呆れた様子で首を振る。
「鷹山さん、俺にも立場があるんでね。あんたには世話になってるが、それでも無理なものは無理だ」
「そんなに、無理な事は言ってないつもりだが?」
「あんたにとっては、ね」
鷹山は目の前に用意された酒に手を付ける事もなく、尋ねた。
「消えた金は戻ったか?」
ちらりと向けた視線に映る、意味深な笑み。松山は何も言わずに酒を飲み干した。
「さて、そろそろ私はお暇させて頂きますよ。まだ仕事があるんでね」
そう明るく言い放って、彼は顔を上げた鷹山に笑みを浮かべる。
「よければまだ飲んで行って下さいよ、いい店ですから」
「いや、結構だ。答えは得られそうにないからな」
同じく立ち上がった鷹山に、松山は軽く笑って肩を叩く。
「では、いずれ」
「…ああ」

―――結局、はっきりした答えは何ひとつなく。
知らぬ存ぜぬか…当然だが、あまりにその繰り返しにはいい加減、飽々する。
外気の風を受けながら鷹山は煙草を取り出そうとコートのポケットに手を突っ込んだ。不意に指に当たった、かさついた感触に彼は気付く。煙草と共に取り出した小さな紙を開き、彼は煙草もくわえてそれに目を落とした。几帳面とも思える小さな文字で走書きされた白い面の上のボールペンの伝言…『槇田を当たれ』。
「相変わらず、喰えないな…」
鷹山はくわえた煙草に火を付け、苦笑する。
―――槇田か。
それは忘れた事もない、忘れるはずもない名前だった。
彼の記憶から消される事はない名前の内のひとつに、これほど苦々しい気分になるのはどれぐらいぶりだろうか。いや、きっといつまでも変わらないままだろう…納得のいく決着が付くまでは絶対に。
鷹山はメモを乱暴にポケットへ押し込むと共に、夜の街並へと歩を進めた。

 

つづく

 


2007/4/10 BLOG掲載

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送