私の名はロジャー・スミス。この記憶喪失の街には必要な仕事をしている。
パラダイムシティは記憶喪失の街。この街の人間は、四十年前のある日を境に、それ以前の記憶を全て失っている。
しかし、それでも人間というのは何とかしていくものだ。
どうすれば機械が動き、電気が得られるのかさえ判れば、過去の歴史など無くとも、文化とやらは装える。
過去に何があったのか、何が無かったのか。
気にせずに生活だって出来る。いや、そう努力してきたのだ。
記憶を失って哀しんでいるのは、この街の老人だけだ。
しかし――、メモリーは悪夢のように、いきなりその姿を現す時がある――。

我、神の名において鋳造する。汝ら罪なし。

その言葉が意味する所を、誰も何も知らない。
皮肉なことに、この私ですら真実を手にしてはいないのだ。
微かに脳裏を掠める過去の記憶が、心の闇が、時として私を際悩ます。
地底深くに渦巻く不条理な感情――恐怖が、私を絡め取る。
何が私を…そして、私たちを駆り立てるのか。
それらの真の姿を把握することは容易ではない。

ただ、静かに私を見下ろす、この黒い巨人だけが私たちの無くした年月を知っているのかもしれない。

 

THE BIG-O Roger/Angel #1 "The lost wish"

 

「ミスター・ネゴシエイター」
 皮肉に満ちた声で彼を呼ぶ、謎めいた美女…いくつもの名を持つ彼女は、魅惑的な微笑を浮かべて男を見つめた。
「今日は一体、何の用件かな?ミス…」
「エンジェルと呼んでって言ったでしょ?」
 いつしか習慣のようになってしまった会話。
 ロジャー・スミスが皮肉を込めて彼女に敬称を付けるのに対し、彼女は…今の所は一番正確な…呼び名を呼ぶことを要求する。
 ドームの人工的な夕日が窓から射し込み、ロジャーのオフィスの床を照らしていた。そしてそれは、窓辺に立った彼女のブロンドも照らしていた。
 淡い紅色のスーツに身を包んだ天使は、彼に勧めるがままソファへ腰を下ろす。そして、形の良い脚を組み、向かいのソファに腰を下ろしたロジャーに微笑んだ。
「近くに来たから寄った…それじゃあ、理由にならないかしら?」
 この女が何を企んでいるのか、その真実もまた謎のままだった。彼女が只者ではないと言う手ごたえと、とても魅力的な女性であると言う点以外は、今の所掴んではいない。
 ロジャーは微かに表情を和らげ、からかうように言った。
「君とそれほど親密な関係ではない、と思うが?」
「酷いこと言うのね」
 エンジェルもまた、この会話を楽しむかのように笑みを浮かべたまま応えた。
「私は真実を言っているまでだ」
 わざと呆れたように言い、ロジャーは彼女を見やる。
 エンジェルはカバンの中から…彼女にとても似合う、女性らしい華奢な…シガーレットケースを取り、そこから煙草を一本取り出す。煙草を咥えると火をつけ、味わうように吸ってから、深く煙を吐き出した。
「あなたの言う真実って…どれぐらい正確なものなのかしら」
 視線を伏せたまま、エンジェルは言った。
「答えて、ロジャー・スミス」
「………」
 彼は苦虫を噛んだような表情を浮かべ、彼女の真意を探ろうと目を細める。だが、エンジェルはそれすらも拒絶するように視線を外したまま煙草を吸っていた。
「君は一体、何の用件で訪れたんだ?」
 もう一度、初めと同じ質問を繰り返す。
 エンジェルは視線をロジャーに戻し、鋭いと思えるような眼差しを向けた。そこには初めの時の笑みなど消えている。
 頑なな表情は、それでも絵画や彫刻を思わせるほどに美しい…R.ドロシーの人工的な美しさとは異なる、美しさだ。ドロシーは最高の芸術作品だが、そこに生命はない。対して、エンジェルは生ある者の美を持っている。それこそ、無機物に生命を吹き込む天才的な"芸術家"の作品にも似ていた。仕草や表情、どれをとっても様々な色を見せる。
 ロジャーは自分に対して苦笑を浮かべた。
―――彼女は確かに、女性としてこの上も無く魅力的だろう。だが、それと同等…いや、それ以上に危険な女でもあるのだ。
「ただ、知り合いの家に遊びに来たとは思えないが。特に、君ならば」
「冷たいのね」
 吐き出された言葉は憎しみにも似た感情を伴っていた。突き刺すような毒のある声色が微かな失望を孕んでいる。
 ロジャーは背もたれから背を離し、少しだけ彼女に向かって上体を前傾にした。話を聞こうとする体勢である。しかし、エンジェルは冷たい視線を向けただけで言葉を紡ごうとはしなかった。
「私は、誠意のある相手に対しては誠意を持って答えることにしている。もし君が…」
「それは遠まわしに皮肉を言ってるのかしら?」
 ロジャーは溜息を吐いた。
「"遠まわし"ではなく、直接、正直に言っているよ」
 エンジェルは苦笑にも似た笑みを浮かべた。
「嫌味を言う時も"誠意"とやらを持ってるのね、ロジャー・スミス」
 微笑を浮かべ、彼は言う。
「君ほどの毒を吐いているとは思わないが」
「あら、そう?」
「何事にも誠意を持って対応するのが私のポリシーだからね」
「あなたって最低ね」
 エンジェルは短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「それも言われ慣れている」

 

 どれぐらい互いの腹の中を探り合ってたか分からない。長くも感じたし、短くも感じた。本当はほんの10分程度だったかもしれない。だが、十分に相手を傷つけ合うだけの時間はあったと言えるだろう。
 ロジャー・スミスは、彼の中でも最高に気に入っていた酒を彼女のグラスに注いだ…これも、彼なりの誠意だろう。謝罪でもなく、慰めでもないが、女性の客人に対する礼儀だけは彼女に対しても怠ろうとは思っていない。
 深い色合いと香りを楽しみ、それからエンジェルはブランデーを口にした。
「良いお酒ね…でも、この味は今の私の気持ちみたいに苦いわ」
「どうして?」
 何気ないロジャーの問いかけに、エンジェルは苦笑する。
「分かっていて聞いているなら、やっぱりあなたは最低の男よ」
「なるほど」
 余裕すら感じさせるロジャーの態度に、エンジェルは微かに表情をきつくした。
「再戦する?」
 美女の挑戦的な声に、ロジャーは「とんでもない」と言って手を振った。
「今は、君とこの酒を味わうことに専念したいね。せっかく…」
「せっかく…なに?」
「美しい女性とこうして酌み交わしているのだから」
 エンジェルは相好を崩し、軽やかな笑い声を立てた。
「変わってるわ、あなた」
「そうでもない、と自分では思っているよ」
「随分、自信があるのね」
「もちろんだ」
 ロジャーはグラスを傾け、一口飲む。そして、笑みを再び浮かべた。
「男なら、たぶん皆が思うことだろう…それは君自身も自覚しているんじゃないか?」
 一瞬だけ呆気に取られたエンジェルは、しかしすぐに表情を戻した。口元に微笑を浮かべたまま、目が挑戦的に煌く…危険な女だと理解しながらも、思わず惹き付けられてしまいそうになるその視線でロジャーを見つめる。
「褒め言葉なのかしら?」
 ロジャーははぐらかすように、答えないまま席を立つ。そして、窓辺に立った。
 すでに夜の帳が降りた街を眺め、彼は酒を飲んでいる。その後姿を見つめ、エンジェルはグラスをテーブルに置く。そして、立ち上がると彼の元に歩み寄った。
「ロジャー・スミス…パラダイム一のネゴシエイター」
 振り返ったロジャーの目が、自分を見上げる彼女の視線とぶつかる。
「一体、何人の女性を泣かせたのかしら?」
「私は誰一人、悲しませるようなことはしていない…と思っている」
「随分、強気なのね」
「そう、私は信じている…と言った方が正解かもしれないが」
 少しだけおどけるような笑みを浮かべ、ロジャーは言った。
 くすくすと笑い、エンジェルは繊細なその指でロジャーの唇に触れる…撫でるようにそっと動かし、何かを言おうとする彼を押し留める。そして、彼女は爪先立ちになって背伸びをした。
「…エンジェル?」
 顔を離すと、驚いたような表情を浮かべた彼がエンジェルを見下ろしていた。それを見て、エンジェルは期待はずれな顔をわざと浮かべた。
「思ったより子供ね」
「…どういう意味だ?」
 小さく顔をしかめたロジャーを見て、さらにエンジェルは笑った。
「別に」
 そのまま踵を返そうとする彼女の手を捕らえ、ロジャーはその華奢な体を引き寄せた。必然的に顔が近付き、二人は互いを見つめたまま息を詰める。相手の顔…目を、伺うような、戸惑うような視線で探り合う。
 最初にその小さな沈黙を破ったのはエンジェルだった。
 彼女はそっとロジャーの頬に手を当て、撫でるように彼の肩にゆっくりと下ろした。
 ロジャーは考えるような仕草をした後に、彼女の腰に手を回す。少し力を込めると、彼女との距離がさらに縮まった。
「ロジャー…」
 囁く声は微かに甘く掠れている。彼女の唇にひかれた薔薇のように紅いルージュが、彼女が微笑むと同時に誘惑していた。
 誘われるままに唇を重ねる…ロジャーは、彼女が自分の背に手を回すのを感じた。掌で彼女の均整の取れた見事なまでの体のラインを味わいながら、彼女を抱きしめた。

 

 朝を迎える前に、天使を名乗る女はこの腕の中から出て行った。どこかの御伽噺のように。
 私は夜気を避けるようにガウンを羽織り、窓辺から外を見下ろした。
 先ほどまで寝台の上に身を横たえていた一度きりの偽りの恋人は、自身の車を走らせて去っていく。
 寝静まった街に微かに響くエンジン音が遠くなり…私はゆっくりと目を閉じた。
 そして、再び目を開き、寝台に近付く。
 腰を下ろして、暖かさの残るそのシーツに手を置いた。

 彼女が一体、何の目的でここに訪れたのか…その答えを見つけることは出来なかった。
 ただ、小さな空虚さだけが発見できた。
 まるで失ったメモリーを抱えたまま生き続けるこの街のような、無意味な空虚さだ。
 失ったものを求めるように、彼女は私へと歩み寄った。
 だが、私の中に彼女の求める真実は無かったのだ。
 彼女の求める真実…それを与えることの出来る者が、本当にこの世に存在するのだろうか。
 それは分からない。
 そして、彼女自身も分からないのだろう。
 今はまだ、真実と…それを求める自身への疑問に対する模索を続けている。

 この私と同じように。

 

END

 


世の中、ロジャー/ドロシー(プラトニックが主?)ですね。私もそう思います。
ドロシーはどんどん人間っぽくなっていくし、その中にはなんだか恋だとか愛だとかを匂わせるようなセリフも多いし…ロジャーの態度も、他の女性とドロシーでまったく違うし。
冷たいと言えば冷たいんですが、どちらかと言うと「好きな子をわざといじめる」子供みたいな面が。
でも、何故か初書きビッグオーはロジャー/エンジェル…どこまでも他の道を行く私(笑)
う〜ん、でも、エンジェルとのカップリングも割りと認められているのかな?と。
だって、ドロシーはどうしたってアンドロイドに違いないので、そこから先に進まない…いや、わざわざ進める必要もないように思います。
彼らは可愛い恋愛がとても似合うような気がして。

今回、ロジャーを意識的に「紳士」にしました。
多少は作品のキャラクター性を消さないようにしたのですが…第1話の「紳士」であるロジャー・スミスの印象が一番好きなんです。
それから、エンジェルを持ってきたことで、少しは大人な関係のストーリーを書いてみようと足掻いてみました。笑。
む、難しい…本人が(実年齢とは関係なく)子供っぽいので、大人の恋愛小説というのは無理なようです。涙。
いつか大人の恋愛物が書けるようになりたいなあ。
って…自分が大人として大人の恋をしなけりゃ、絶対に無理なんでしょうけれど。笑。
次こそドロシー&ロジャーを書きたいと思ってます。
ファンフィクが豊富な海外サイトも回ったのですが、ビッグオーは同性スラッシュ(日本で言えばいわゆる女性向け)がないですね。
確かに、ヤオイ向けの作品じゃないです。この私が「普通にハマッタ」のが証拠(笑)
日本では主に女性が女性向けとして書きますが、海外ではゲイの人(つまり男性)が書くことも多いそうです。バットマンやスターウォーズなんか、多いですね。
思うに、アニメファンは触発しても、アニメファンのゲイは触発しなかった作品なのでしょう…それはまたそれで珍しいかも。

 

2003/2/27 『THE BIG-O/The lost wish/ROGER&ANGEL』 by.きめら

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