夕暮れが無意味に冷たい風を連れてくるように、この街もまた、救われぬ陰鬱な厄病をもたらしていく。
 それでもこの街の住人は、悲しみに暮れて打ちひしがれるよりも徘徊する野良犬のように生きていく。
 だが、それが一体、どんな罪だというのだ。
 得てして人間とはそういった、悪足掻きをする生物なのだ。
 そう…この私とて、例外ではなく。

 

THE BIG-O Roger/Dorothy #3 "Last kiss to sleeping beauty"

 

 暗闇が恐ろしく強大な悪魔のように視界を覆い、沸き起こる不条理且つ理解不能な感情が私を支配している。
 刻々と進んでいく時間の無慈悲さは、悠久の歴史を表すようでもあり、だがしかし、失われたそれらのあまりに膨大な欠落を嘲るようでもあった。
 私はただここに座り、聞こえるもの、見えるもの、感じるものを完全に断ち切っていた。
 私は恐れているのではない。
 私は何も恐れない。
―――私は、ただの抜け殻に過ぎない。
 閉ざされた感覚に絡みつく、非現実的な感触だけが今も取り巻いている。
 くだらないおとぎ話のように、死人の残留思念だけが不確かな現実感を伴っていた…可笑しなことだが。
 不確かなもの、不信なもの、理解しがたい歪曲した世界。
 そこにある全てに私は触れることを拒み続けている。
 沈黙を続ける黒いアマデウス、その埋もれた過去に立つ虚像のように。

 

「今日はいつもより街が騒がしいわ」
 ドロシー・ウェインライト…かつてそう呼ばれた少女を模して造られたアンドロイドは微かに小首をかしげ、整った白い顔を呼びかけた相手に振り向かせる。
 ゴシック調のテラスとその眼下に広がる街の風景を一望できる硝子張りの居間は、曇りがちなパラダイムであっても昼間の微かな光で照らされている。古風なワイン色の絨毯は外の喧騒も内の閑静も吸い込むように床を覆い、僅かな光で生まれる影をひっそりと薄く受け止めていた。
 ある日を境に訪れたこの家の沈黙は、今では当たり前のようにすら感じられる…例え誰にとっても不本意な現実であったとしても。
「今日は誰もが馬鹿げた格好をして、パーティーを楽しむそうよ」
 ヘブンズ・デイを約2ヶ月後に控えたこの日、それとは別の異様な、それでいて祭り特有の興奮に街はざわめいていた。
 ドロシーは規則正しい足取りで歩み寄り、窓辺の椅子に深く腰掛けたままのガウン姿の男の前に佇んだ。それから肘掛に置かれた手の上に自身の白く繊細な手を重ね、相手が何の反応も起こさないのを不可思議に思うこともなく顔を見下ろす。
「あなたはこのお祭りも嫌いなの、ロジャー?」
 ただ静かな空気だけが、暖房の効いた部屋の中を冷ませていた。

 

「今日は何の日なの、ノーマン」
 キッチンでなにやら準備中のノーマンにドロシーは話しかけた。
 礼儀正しい老紳士は少しだけ意外そうな顔をして振り向くと、アンドロイドの少女が何かに興味を抱いた事実を微笑ましく感じて穏やかな笑みを浮かべた。
「ドロシー、今日はとても可笑しな日ですよ。ドロシーにとってはとても奇異に見えるかもしれません」
「そうは思わないわ、ノーマン」
 彼女はいつもの無表情で相手の言葉を否定した。
「私は何かを思ったり、感じたりしないわ」
 ノーマンは「おやおや…」と困ったように相好を崩し、年若い頑なな孫娘を諭すように言葉を紡ぐ。
「でも、とても奇異な日なのですよ。皆が可笑しな格好をして騒ぐ、可笑しな日なのですから」
 ドロシーは少しだけ考えるように黙った。それから真っ直ぐにノーマンを見上げる。
「そう、可笑しな日なのね」
 彼女が彼女なりの納得を見つけた様子に彼はにっこりを微笑んで、それ以上は何も言わなかった。その代わりに、甲高い音で”出来上がり”を教えるオーブンに歩み寄って扉を開け、中から熱い鉄板を取り出す。その上には優しい色に焼きあがったクッキーが乗っていた。ふんわりと漂う甘い香りがキッチンの中に広がっていく。
「お菓子を作っていたの、ノーマン」
「ええ、そうですよ、ドロシー」
 彼は焼きたてのそれを皿の上に移し変えると、まだ焼かれていない型を取られたクッキーの生地を新たにオーブン板の上に並べていく。そして歌うようにノーマンは言った。
「”Trick or treat”」
「どういう意味?」
「お菓子をくれないと悪戯するぞと言って、子供たちが近所を回るんですよ」
「どうして?」
「さあ…どうしてこのお祭りをするのか、どうして子供たちがお菓子をもらいに家々を訪ねるのか、存じませんが」
 ただ、昔からこんな日があったような気がする…彼は少しだけ寂しそうに微笑んだ。

 

 呼び鈴の音に気付いたドロシーは掃除の手を止めて振り返った。ノーマンは…どうしてあんなにもたくさん作るのか彼女には分からなかったが…様々なお菓子作りにまだ勤しんでいる。
 彼女は箒を持ったまま玄関まで歩いていった。
 ドアを開ければ3人ほどの子供たちが、なるほど、可笑しな格好をして立っていた。一様に彼らは目を輝かせて、楽しそうに微笑んで彼女を見上げてくる。
 見れば見るほど奇異なお祭りだ…ドロシーはノーマンに説明された今日のことを思い出した。とすると、この子供たちが何故ここに来たのかも分かる。
「Trick or treat!」
「お菓子が欲しいのね」
「そうだよ、お菓子をちょうだい、おねえさん」
 呼び鈴を聴きつけたのであろうノーマンが玄関に駆けつけた。
「おやおや、早めにクッキーを焼いていて良かった」
 可愛らしいリボンで口を閉じられたクッキーの小袋を人数分渡しながら、笑顔で言った。
「ほら、焼きたてのクッキーをあげよう」
「ありがとう!」
 子供たちの騒ぎながら遠ざかる姿を見送りながら、ドロシーはノーマンを見上げた。
「古い慣わし、だということしかわかりませんが。誰が一体いつから始めた行事なのやら…でも、子供たちの楽しそうな顔を見るのは何年経っても嬉しいものですよ」
 彼がそう言って笑みを浮かべるのをドロシーは何も言わずに見ていた。

 夜、子供たちのお祭りは終わり、別の喧騒が街に溢れていた。アウト・オブ・ドームの暗く沈んだ姿の中にも光り輝く夜のドームへと集まっていく人々の群れが見て取れる。その手にはオレンジがかったかぼちゃのランタンを掲げている。
「ジャック・オー・ランタンというそうですよ」
 夕食の片付けをしながら、ノーマンは疑問を口にしたドロシーに答えた。
「このお祭りには欠かせないもの、とでも言いますか…」
「電気製のランプもかぼちゃの格好をしていなければ意味がないのね」
「そこまで意味のあるものだとは思えませんがね」
 可笑しそうにノーマンは微笑み、それから皿に載せた自信作…お菓子と珈琲の入ったカップをトレイに載せて振り返る。
「さて、ドロシー。これをロジャー様に持って行ってくれませんか?」
 ドロシーは「いいわ」と答えた。

 

 訪れる静寂は突如として現れる悪夢に切り裂かれていく。
 指先まで凍らせるほどの冷たい闇が全てを飲み込んで行き、残虐な天使が命を刈り取っていく。
「私は何のために、此処に居るのだろう」
 目を眩ませるほどの光と、視界を塗り潰すような暗闇。
「私は何のために、此処に居なければならないのだろう」
 全てがまやかしの、偽れざる悪夢だとしたら。
 塗り潰されたスケッチブックの一枚だとしたら。
 深い深い眠りについたまま、やがて訪れるであろう…その結末すら予想だに出来ない…終焉を待ち続けなければならないとしたら。
―――何のために創り出されたのだろう。

 煌くドームが見える硝子窓の傍に彼は座っていた。
 明かりの灯った部屋の中に居ても彼は、彼自身が不思議と好んで纏った服の色のためか…まるでそこだけ夜の闇を切り取ったかのように見える。微かに俯いた顔は何も見詰めず、また、何も語らない。
 ドロシーはトレイを椅子の傍に置かれた小ぶりなテーブルの上に下ろし、彼の力を失った肩にそっと手を置く。
「あなたが嫌いなパラダイムのドームよ。ずっと見ていたいの?」
 彼は答えない。自ら動くこともしない彼は、置かれたままのこの椅子にただ腰掛けているだけだ。
「あなたは一体、何を見ているの?」
―――何故かしら。
 自分が、答えない人間を相手に饒舌になっていくことに不可思議さを覚えながら、彼女は抑揚のない声を紡いでいく。

「あなたは子ども染みていると、おとぎ話もお祭りも嫌うのね」
 彼は誰もが祝う日も、誰かと一緒にそれを祝ったりはしない。
「だからあなたは今も気付かないのね」
 記憶を失った街がざわめいている…そんな日には。
「Trick or treat」
 芸術品と言われた彼女は、細部にわたって最高の美しさを持っているとも言えるだろう…細い指がノーマンの焼いたクッキーを一枚、摘む。
「あなたはきっと、そんなことは言わないのね」
 冷めたクッキーをドロシーは皿に戻し、甘い余韻を残す粉を指先から払う。
 小さな問いかけは答えられることなく、静寂の中に吸い込まれていった。
「でも、私はあなたとお祝いしたいの。例えそれが、どんな日であろうとも」
 彼女は彼の前に回り、上体を屈める。それから両手で彼の頬に触れた。
 何も表さない瞳が、何も写さない彼の顔を映し出す…空虚に俯く、穏やかで、それでいて恐ろしく冷たい顔を。

Trick or kiss

 遠くで弾けるような花火の音が聞こえる。
 色取り取りの明かりが瞬くように消えては現れ、束の間の光が闇に覆われた街を照らし出していく。

「目覚めるのはお姫様だけだと、あなたは皮肉るのね」
―――いつだって。
 彼女は立ち上がると、静かに彼を見下ろした。
「そうでしょう、ロジャー・スミス」

 

 ドロシーはロジャーの隣に佇んだまま、街の喧騒を窓辺で見詰めていた。

 

 

END

 


幸せじゃないって。笑。
でもまあ…一応は、なんだかドロシーは幸せなのかもしれない。
いつか彼が戻ってくるまで、待ち続ける。でも、自分に出来ることは彼のためにしてあげたい…

と言う、ダークな小説でした(汗)
ずっと店頭で探していた単行本にめぐり会えた記念に、1日で書き上げたコレ…ごめん、復活しょっぱなから暗い。とほほ。
ベックの悪夢で可笑しくなったコミックのロジャーさん、廃人状態なんだもの、読んだときマジでビビったよ。
で、そんな日々のドロシーはどうしていたのかな?と思って書きました。
今の季節が季節なので、ストーリーのお祭りは言わずもがなのハロウィーン。
お祭り嫌いなロジャーさんだから、普通に書いてもあんまり楽しくなさそうなので、無気力状態の時の話で(腐)
大体、その回のタイトルが「Trick or treat」だったし。
その内、復活したロジャーとドロシーの愉快極まりない(笑)コメディものを書きたいです。

って言うか、このドロシー…可愛いのか怖いのか分からない話になっちゃった。

 

2003/11/25 『THE BIG-O/Last kiss to sleeping beauty/Roger&Dorothy』 by.きめら

 

 

幸せじゃないのにドロシーは幸せって言うもっとダークな話もあります。
ジャンプページなので、探してみてください(笑)

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