史上最強の弟子ケンイチ いつかきっと

 

―――僕はあの人の戦う姿を見て強く憧れた…そして、いつか守って上げられるぐらいの武術家になりたいと思ったんだ。

 不思議な感覚だった。
 今までこんな気分になったことなど、一度もなかった…そんな気がする。
 ひたすらに強く、真っ直ぐ、幼い時から連綿と続く修練を毎日繰り返してきた自分にとって、これほど自身の中に違和感を覚えたことはない。
 でも、それは決して嫌なものではなかった。
 どちらかと言えば甘酸っぱいような、むずがゆいような…理解することの出来ない仄かな感情の起伏を持て余している、と感じで。
 どうしてそんな気持ちなのか、何故そうなったのか、実の所、皆目見等も付かないのだけれど。

 ただ、あの言葉を聞いた時から、確実にこの気持ちは大きくなっていくのを自覚し始めたのだ。


 あらゆる達人が集う最強の道場…それは梁山泊。そこでは恐るべき猛者たちの指導の下、一人の少年が修行に励んでいた―――とは言っても、気合の入った声とは到底思えない時々悲鳴染みた叫び声が広い敷地内に響いている。それをいつもの光景と思って顔色一つ変えない達人たちであるから始末に悪い。
 小娘台風とも言うべき連華…馬の娘が横浜に帰ってからと言うもの、梁山泊はいつも通りの風景に戻っていた。つまり、達人中の達人たちを師匠として決死の修行を繰り返す唯一の内弟子・白浜兼一の、それである。
 そして美羽は、兼一の組み手の相手をする時以外はいつものように家事に勤しむ毎日を送っていた。

 そろそろ今日の特訓も終わってみんなが集まってくる時刻である…彼女は煮物の味付けを確認しながら、時計をちらりと見やる。
「よし、ですわ」
 にっこりと微笑む。
 今日の料理も上手く出来たと思う。いつも子供の時からしてきたことなのでどうと言うことではないのだが、それでもみんなが美味しそうに食べてくれるのを見ると、作り手冥利に尽きるというか、すごく嬉しいものなのだ。
 そう言えば、最近は時間もないのに料理に余念がない…そんなことを普段は無口のしぐれが言っていたが。
―――そんなこと、ないと思うのですけれど…
 むーと少しだけ考えるように首を傾げる。
―――アパチャイさんは何でも美味しそうに食べてくれるし、馬さんも秋雨さんもおじいさまも褒めてくださるし、逆鬼さんは酒の肴には味が薄いなんてたまにおっしゃるけれど美味いとは言ってくださいますし。それに…
「兼一さんも喜んでくださいますし…」
 美羽はそこではっとして、頭の中で考えていた言葉が口に出てしまったことに自分で驚く。
「わ、私ったら何言ってる…ですわ!」
 何かを失敗したかのようにぺろっと舌を出して、苦笑する。
―――それじゃあ…まるで私が、兼一さんがここに来てから料理の手間をかけてるみたいですわ。
 みんなが喜んでくれることが嬉しいはず。それなのに今になってそんな風になるなんて…そんなことない、と美羽は誰にでもなく言訳した。もっとも、兼一は美羽の料理なら何でも喜んで食べてはいるのだが。
「美羽、何一人で騒いでおるのじゃ?」
 台所の入口から顔を覗かせた長老が、少し微笑ましげな表情を浮かべて美羽を見やる。
 彼女は「え、なんでもないですわ」と微笑んで答えたが、少なくともそれは無自覚な焦りを誤魔化す仕草とも見受けられた。
「ま、それなら良いが」
 長老はわざとからかうようにそう言って、部屋の中へと戻って行く。
「おじいさまったら、もう…」
―――って、あら?私ったら何に怒ってますの?
 料理をよそったたくさんの皿(大食漢揃いの梁山泊は並みの量では済まない)を盆に乗せて運びながら、彼女は何か自身に対して釈然としない気分を覚えたのだった。
「はい、皆さん。ご飯ですよー!」
 元気に大声で言うと、それまでそれぞれ思い思いの場所にいた人々が集まってくる。一番最初にやって来たのはアパチャイ。続いて馬と逆鬼、長老、最後に稽古していた兼一と秋雨が入ってくる。しぐれは例の如く、屋根裏でねずみさまと夕飯であった。
 投げられて畳で擦ったのだろう擦れて赤くなった頬をさすりながら、兼一が座る。斜め向かいの所定の場所に秋雨も腰を下ろす。
「いてて…」
「受身を完璧に取れるようになれば、そんなケガはしなくなるよ」
「そんなこと言われても…」
 どれだけ受身がうまくなっても実力が師匠たちと並ぶぐらいにならなきゃ、無理だと思う…とは声に出して言えない弟子であった。
「まあまあ」
 無言で落ち込む兼一を美羽は苦笑気味で宥めつつ、よそおったご飯を渡す。それからにっこりと微笑んだ。
「今日も頑張ってらっしゃいました、ですわ」
「あ、ありがとうございます」
 美羽の微笑みを見ると、感涙する兼一。
「これからも頑張ってくださいね」
「は、はいッ」
 にっこりと笑う美羽の穏やかな姿こそ、兼一にとってはこの地獄のようなシゴキの毎日における唯一のオアシスだ…兼一は焦るように意気込んだ返事をし、赤くなりながらもそんな自分を誤魔化すように「いただきます」と言って、よそってもらった飯をかっ込み始める。
 初めてここに住み込み出来た時より堂々としてきた兼一の食べっぷりに、美羽はなんだか可笑しいような嬉しいような気持ちを覚えていた。
「おかわりもありますから」
 くすっと笑って、美羽が言う… いつもの光景ではあるが、今日の師匠たちの反応は少し違っていた。おや?と僅かに表情を変え、それから是知ったりと言う顔をする…美羽も兼一も気付いていないが。そんないつもの、それでいていつもと少し変わったような雰囲気に、秋雨と逆鬼は苦笑した。
「ま、これがあるから彼はまだもってるのかもしれないけどね」
「ん…まあ、いいか」
 二人はそう呟いて、自分たちも夕食を食べ始めるのだった。


 夕食後の片付けをし始めた美羽に、兼一は歩み寄った。特別改まった雰囲気ではないが、どことなくしまりのない顔をしている。彼としては、美羽との将来の情景を思い浮かべて一人にやけているのだが…美羽はそんなことは関係なしに水に浸した皿を洗剤をつけたスポンジで洗い始めている。
 兼一ははっと我に返ると、当初の目的を果たすために声をかけた。
「美羽さん」
「あら?」
 気付いた美羽が振り返った。
「どうされましたの?」
「僕も手伝います」
「あら、いいのに…今日も修行でお疲れでしょう?」
「そんな、こんな大量の洗い物を美羽さん一人にさせるなんて出来ませんよ」
「兼一さんったら…」
 そんな兼一の優しい気遣いが嬉しくて、美羽はちょっとだけ困ったように微笑む。その笑みはどちらかと言うと、兼一にではなく、自分の理解しがたい不思議な気持ちに対してだった。
「それじゃあ、お願いしますわ」
「はい」
 彼はにっこり微笑んだ。
 それから流し台に並んで立って、作業を始める…美羽は以前と違った妙な違和感を自分の中に覚え始めていた。
―――いつものことですのに。
 何かと兼一は自分を手伝ってくれる。それが住み込みの弟子だからなのか、友達だからなのかちょっと分からないけれど、彼が生来優しい気質なのも理由だろう。
―――そう、いつもそうですわよ。
 落ち込んだりヤサグレたり、手のかかる弟みたいな兼一。でも、妙に男らしかったり、優しすぎたり、時には驚くほど気迫を持ったりして、頼もしいような時もある。本当に、めまぐるしいぐらいに彼は表情を変えるのだ。それが見ていて飽きないと言うか、楽しいというか…どちらかと言うと、そんな兼一の傍に居られること自体が楽しいみたいで。
 今までの事を思い出すと、思わず笑みがこぼれる。
―――本当、面白い方ですわ。
「そうそう、そう言えば…この間、やっと育ててた花が咲いたんですよ」
 横では兼一が美羽に向かって話しかけている。
「そうなんですか?」
 彼女はそれに相槌を打ちながら応えていた。
「小さくて弱い芽だから心配してたんだけど…」
―――花のことを話されている兼一さんって、本当に優しい顔をされるんですわ。
 時々、植物に自分の気持ちを重ねてしまうようなことがあるものの、それも微笑ましくて、美羽は「良かったですね」と言う。
「そうなんですよ。泉さんも喜んでて」
 そう言って兼一は嬉しそうに微笑んだ。
 けれど、その言葉に少しだけ美羽は手を止める。
―――あら…なんですの、この感じ?
「本当、彼女も花が好きなんだなって思って嬉しくなっちゃって」
「は…はあ、良かったですね…」
「先生に言って、今度は裏の花壇も…」
 彼は本当に楽しそうに今日の出来事を話していた。それが全て花についてだからいいのだけれど…でも、ちょっとだけ頭に引っかかる部分があるような。
 美羽は半分は聞き流しながら受け答えていた。
―――どうしたのかしら、私…
 美羽が洗った皿を受け取って、横ですすぐ兼一。その横顔をちらりと見やって思う。
 彼はまだ笑っていたが。
―――兼一さんの言っていた言葉が、頭の中を過ぎる…

「美羽さんじゃなきゃ、ダメなんだ」

 いつだったか、新島が扮した謎の少女からのラブレターで悩んでいた時の兼一の言葉だ。逆鬼と修行しながら悩み相談していた時に、彼はそう言ったのだ。
―――私、それがなんだかとても嬉しかったんですわ。
 いつまでも変わらずに友達で居てくれる、そう約束してくれた兼一が言った言葉だが。
―――それが、とても。
 その口が他の誰かの事を言っていたとしても、きっと心のどこかは自分のことを思っていてくれているような感じがして…いや、そう思いたいような気持ちがあって。
「だけど後から来た新島のヤツが…って、美羽さん?」
 兼一は話しかけていた相手が物思いに耽っているのに気付いて、顔を向ける。
 はっとしたように美羽は「あ、あら、ごめんなさい。ちょっとぼうっとしてて…」と苦笑いを浮かべながら兼一の方に振り向いた。でも、その相手の視線と自分の視線がぶつかった時、何故だか分からない胸騒ぎのような、高まりのような、不思議な感覚がざわりっと起こる。
―――あら…?
「美羽さん?」
「あ…なんでもないですわ」
 ふいっと慌てるように顔を背けて、美羽は手元の洗い物へと目を向ける。
 その顔がいつもとちょっと違うように思えて、兼一は不思議そうに首を傾げた。
―――い、嫌だわ、私ったら本当にどうしたのかしら?一体、なんなのかしら、これ…
 顔が…頬が熱い。なんだか分からない動悸がする。もしかして妙な病気かとすら思ったりもして。
「じゃ、僕は拭きはじめてますね」
 そう言って兼一は洗い立ての食器を布巾で拭こうとする。
 だが、美羽はまだ治まらないドキドキを抱えたまま、慌てるように言った。
「あ、後は一人で大丈夫ですわ!」
「え、でも…」
 その様子に兼一は理解できないような顔をするが、美羽はそれすらも気付かないフリをして兼一の手から食器と布巾を取り上げる。
「大丈夫ですってば。助かりましたわ、ありがとうございます」
「そうですか?」
 納得いかない兼一を、まるで追い立てるように台所から入口へと押す美羽。まったくもって、彼は理解できない。
「そ、それでは、居間でくつろいでてくださいね」
「は、はあ…わかりました」
 廊下へと追い出された兼一は、ちょっと顔をしかめたまま居間へと渋々向かう。
 兼一としては今の風景に、叶いそうもない将来の夢…可愛い奥さんと中睦まじい夫の自分…なんてものを、ちょっぴり重ねて見ちゃったりしたのだけれど。
「なんか…僕、気に障ることしたかなぁ?」
 何か間違ったことでも話しただろうか。
 美羽の気に入らないことでもしてしまっただろうか。
「う〜ん…」
 皆目見等も付かない。
 でも、女心と言うヤツは分かり難いものだから仕方ないと自分に言い聞かせる、思春期の少年であった。


 なんだか分からない感情が強くなっていく。
 どうしたって原因が思い当たらないのに鼓動は早くなって、かあっとなった顔は治らなくて。
 傍に居るのが少しだけ息苦しいような…それが嫌なわけじゃないのだけれど。
 楽しそうに話している彼を見て、ちょっと腹が立ったような、そんな気もして―――まるで、こっちの気持ちに気付いてもらえないことに、そして別の誰かのことを話していることに苛立つみたいに。
「な…何考えてますの、私ったら…」
―――分からない。
 澄んだ目が不思議そうに自分を見ているのが分かっているのに、理由が自分でも分からないからどう言っていいのかも思いつかない。
 でも、それが嫌だとは思えなくて。
 彼の視線も、自分の不可解な感覚も、決して嫌なものじゃなくて。
 ただ、戸惑いだけが大きくなっていく―――そんな自分が不思議と可笑しいくらいに可愛く思えてしまうのは、何故だろうか。


+ + + + +


 放課後のチャイムが鳴ると、一斉に生徒達が各々の行くべき場所へと急ぎ始める。ある者は部活や委員会、ある者は帰宅か帰宅途中の寄り道か…白浜兼一も机の上のものを片付けながら席を立つ。園芸部に行く為だ。
 それから、同じく部活…新体操部へと向かう隣の風林寺美羽に話しかけた。
「じゃあ、部活が終わったら校門で!」
「ええ、わかりましたですわ」
 にっこりと微笑んだ眼鏡越しの彼女の目を見て、兼一も微笑む。
―――うん、やっぱり可愛いなぁ。
 そんな不謹慎な思惑など関係ないように、美羽は教室を出て行く兼一に手を振っていた。


 新体操の練習が終わり、美羽は何故か逸る気持ちを抑えて兼一のいる花壇まで走っていく…全然そんな自分を理解できなかったが、それでも率直な彼女は気持ちのままに彼のもとへと向かっていた。
 そして、まだ水遣りを終えていないその姿を見つけ、声をかけようとする。
「兼一さ…」
「ねえ、白浜くん」
 その声を遮るように、微妙な感情が含まれた声が先に兼一に話しかけた…唯一の園芸部員、泉優花である。
「あっちの花壇は終わったけど、次は何をすればいいのかしら?」
「ああ、ありがとう。じゃあ、次はあっちの花壇に肥料をお願いするよ」
 にこっと兼一は微笑んで振り返った。

「………なにしてますの、私…?」
 そんな自問が口を突く。
 咄嗟に近くの木の上に上がって、美羽は彼らの姿を見下ろしていた。
―――何故かしら。
 どうしてか分からないけれど、二人の様子を見て隠れてしまう自分。もう、泉とは面識も話したこともあるのだから、そんな必要はないはずなのに…それでも時々、自然と身体がそうしてしまっていることがある。
―――自分でも何でそうしてしまうのか、分かりませんわ。
 むむっと顔をしかめてしまう美羽である。
 それでも視界の二人は笑顔で語り合っていた。それが、何故だか余計に不機嫌にさせる。
「この間、先生に言って買って来てもらった球根なんだけど、そろそろ季節だから植えてみようか?」
「そうね。元気に育ってくれるといいわ」
「うん、大丈夫だよ。植物は気持ちを込めれば、ちゃんと伝わって育ってくれるから」
 そういう時の兼一は、美羽もあまり知らないようないつもとはちょっと違う雰囲気の笑顔を浮かべる。彼の優しさや意外と寛大な性格が如実に表される笑顔と言うものは何度も見る機会があったが、それとも違うように思えた。そう、園芸のことを話す時の彼は。
 泉は兼一の笑顔に思わずきゅんっとなりそうな胸を両手で押さえる。そう、その笑顔を今の所一番知っているのは彼女かもしれない。
―――なんだか、ちょっと悔しいのは何故かしら…?
「白浜くん…」
 美羽が見ている前で、泉は遠慮がちで消え入りそうな声で言った。
「私、白浜くんのそういう考え方、好きよ」
「え?」
 泉は少し上目遣いにそう言って、仄かに赤くなりながらもじもじと下を向く。
 だが、兼一はにっこりと笑った。
―――ええ!?どうしてそこで笑いますの?
 ガンッとショックを覚える美羽。
「ありがとう、そう言ってくれるのはキミだけだよ」
―――な…っ
 泉はぱあっと表情を明るくして兼一を見やる。
「それと、美羽さんも…」
「え…」
―――兼一さん…
 その言葉の後、泉と美羽の表情は見事に入れ替わるのだった。
「う…で、でも、お花のことでお話できるのは私くらいでしょ?」
「え?うん、そうだね」
 その返答に気をよくしたのか、泉は苦しいながらも笑みを取り戻す。
「だったら…」
「美羽さんは忙しいから仕方ないよ…」
 昨日のことを思い出したのか、ふうっと溜息を吐く兼一。
 泉はその後ろで固まったように立ち尽くしたまま、「………なんでそこでまた、あの人のことが出てくるのかしら…」と呟いた。

「兼一さん…ったら」
 どうしてか分からないけれど、思わずくすっと笑ってしまう。
 なんだか不思議だった。
 彼の一挙手一投足に一喜一憂してしまう自分がいる。
 彼が自分のことを何故か、どうしても会話の中に引き出してしまう様を見ると、心がふわっと温かくなるような気がしてしまう…くすぐったいような、むずがゆいような、良く分からない気持ちで。
 彼女はネコのようにすとんっと身軽に地面へと降り立つと、ゆっくりとした足取りで彼らの方へと向かって行った。
「兼一さん」
「あ、美羽さん」
 そう言って、気付いて振り返る兼一の表情は、これまでと違った明るさを表していて…ああ、それが自分のせいなんだと思わざるを得なくて、思わず微笑んでしまう。傍らの泉は思わずむっとしたように顔をしかめてはいたが。
「もう部活は終わったんですか?」
「はい。兼一さんの方はまだみたいですわね」
「あはは、すいません。ちょっとだけ待ってていただけますか?」
「ええ」
 昨夜の可笑しな様子とは打って変わって、にっこりと微笑む彼女に兼一は安堵すると同時に浮かれてしまう。きっと思い過ごしに違いない…自分が何か嫌われるようなことをしたかもしれない、と言う考えは。
 反対に、お迎えがきてしまって時間切れを宣告された泉は切なそうに顔をしかめている。そんな彼女を見ていると、理由は分からないけれどちょっぴり申し訳ないような気分を覚えた―――美羽も、もともと良すぎるぐらいのお人好しだから仕方ない。
「終わりました!」
 ちょっと離れたところの花壇まで水遣りをして、兼一はホースを片しながら戻ってくる。
「泉さんも、今日はもういいよ」
「あ、はい…」
 物言いたげな顔はするものの、気弱な性格の彼女はぐっと言葉を飲み込んで悲しげに頷いた。だが、薄情なもので、兼一は美羽が来てくれた事でとっくに気持ちはそちらに向いてしまっている―――悔しい、と泉が思っているのすら気付かずに。
「お待たせしました!」
「それじゃあ、行きましょうか?」
「はい。泉さんも気をつけて帰ってね」
「はい〜…」
 涙目の彼女は、それに気付かずに嬉々として美羽と歩き出す兼一に手を振った。
 やがてその二人の姿も視界から消え…「でも、負けないもんっ。ぐすん」と片思いを胸に抱き、泉は誰にともなく呟いた。


 さっきの不可思議な感情の起伏はなんだったんだろう…美羽はそんな自分に戸惑いながらも、今は笑顔で兼一と話しながら歩いている。
 何だかその正体を知りたいような知ってしまってはいけないような、不思議な葛藤を覚えてしまう。その上、そのことを考えるだけで鼓動が早くなるような、まるで触れてはいけない事柄のような、そんな気がしてしまう。
―――でも…きっと、思い過ごしですわ。
 そんな自分の、自分でも分からない感情だなんて、あるはずがないわけで。
 だから彼女はそれ以上、自分の中の不確かなもやもやを考えるのはやめようと思った。
 けれど、隣を歩く兼一がその顔を覗きこませて、不思議そうに瞬く目と合った時、息が止まるほどの強い衝動が胸を打つ。
「どうしたんですか、美羽さん?」
「いえ、何でもありませんわ」
「そうですか?」
 兼一が心配げに顔をしかめる様すら見やることが出来なくて、美羽は慌てるように顔を逸らした。
「やっぱり…昨日、僕、何か気に障ることをしましたか?」
「え?そんなこと…どうしてですの?」
「だって、なんか昨日の美羽さん、ずっと気まずそうにしてましたし。今もなんかいつもと様子が違うような気が…」
 その先を聞きたくない。
 自分でも分からないことを、どうしてなんて訊かれたくもないし、言われたくもなかった―――知ってしまうのが怖い。
「な、何でもありませんわ!今だって何も変わってませんわ!」
 何故だか必死になって彼女は言い募り、驚いた兼一は慌てて宥めるように言う。
「わ、わかりました…落ち着いてください」
 そんな彼の反応に、八つ当たりしてしまったかのような気がして、美羽は更にどうしたらいいのか分からなくなってしまった。たぶん、悪いのは自分の方なのに。でも、困ったように、美羽を慌てさせてしまった事を謝罪するかのように表情を変える兼一。
―――どうしてですの?
 どうして兼一はこんな自分を大切にしてくれるのだろう。
 こんな、こんなにも理不尽な態度を取る自分を。
―――どうしてこんなに、胸が痛いのかしら…。
 切ないような、苦しいような、裂傷を起した指先のように熱を持つ。
 ちらりと遠慮がちに見やれば、口をつぐんだままの兼一の横顔が見える。
―――どうしてこんな気持ちになるのかしら…。
 いつもと変わらない、ずっと変わらないはずの関係なのに。
―――お友達…でいてくださいね、これからもずっと。
 ずっと傍に、いて欲しい。
―――だから…
 こんな訳の分からない気持ちなんて抱えている必要はないはずなのに。

「美羽さん」

 その呼ぶ声にはっとする。
 顔を上げると、やはり心配するような面差しで兼一が美羽の瞳を見つめていた。
「はい…なんですか?」
「どこか調子が悪いんですか?さっきから上の空だし、今も黙り込んだまま何か考え込んでるみたいで…悩み事でもあるみたいに」
「え?」
 一瞬だけドキリとした。
「もし…もし僕で良かったら、話してみてください」
 そう言って照れくさそうに顔を逸らす、同年の男の子。
 最初は頼りなくて情けなくて、今だってそんな時もあるけれど、もう随分と逞しくなった。
 意志の強そうな眼差しは何処までも澄んで真っ直ぐで、時折、優しげに自分の目を見詰めてくる…いつか、彼が言ったような時は来るかもしれない―――美羽を守りたい、そんな日が。
 美羽は俯いたまま歩を進める自分の足元に視線を落とす。
「悩み…と言うほどのことではないのですが、ちょっと困ってて」
「え?何ですか?」
 口を開いた美羽に一気に気を向ける兼一。
 彼が自分を見ていることは気配で分かっている…いつもだったら気にもならないのに、何故かその視線が痛いくらい肌に感じられる。
「その、なんて言っていいか自分でも分からないんですの。ただ…その…今、とっても不思議な気持ちで、どうしたらいいか分からなくて」
 言葉にならない気持ちが勝手に溢れ出てきそうで、声にならない言葉が口を突きそうで、彼女は自分自身に顔をしかめた。どうしたらいいのか、今の状況ですら分からない。
―――この気持ちが、分からない。
「美羽さん、大丈夫ですか?」
 再び言葉に詰まって黙り込んだ彼女を兼一が気遣うように問いかける―――その優しさが痛いくらい分かって、胸が締め付けられる。
「美羽さん?」
 再度呼びかけられて、意を決したようにくっと顔を上げる美羽。意味も分からずに染まったその頬は仄かに赤く、大きな目は上気した頬のせいで潤んでいるように見えた…思わず兼一は息を呑む。
 綺麗だと思った。
 彼女の淡い色の長い髪も白い肌も色素の薄い明るい瞳の色も全部が輝いているようで、綺麗だと思った。
「…どうしたんですか?」
 胸の内の高まる鼓動を隠すように兼一は掠れた声で問いかける。きっと、今は自分の方が顔が赤くなっているかもしれない。
 美羽は少しだけ呆けたように彼を見やってから、にっこりと笑った。その笑顔がまた、ドキリとさせる。
「み、美羽さん?」
「兼一さん」
 彼女は彼の名前を呼んだ。
「私、今、とても幸せなんだと思います」
「え?」
「おじいさまがいて、みんながいて、毎日が大変ですけれど楽しくて」
「は、はあ…?」
 そして彼女は少しだけ深呼吸する…再び向けられた顔は兼一を見詰めたまま微笑んだ。
「そして、兼一さんが居てくださって。とても幸せなんです」

 ああ、それがこの気持ちの正体…答えなんだと思いついて。
 その言葉の中には、言ったこと以上のたくさんの気持ちが詰まっているような気がして。
 締め付ける胸の痛みが、すうっと溶けていく気がした。 
 彼が居るから、居てくれるから、こんな気持ちが生まれたのだと気付いた。

 兼一は優しげに目を細めて言う。
「僕は美羽さんに出会えて本当に良かった」
「え…?」
「前は弱い自分を誤魔化すことしか出来なかったけれど、今はちょっとずつでしかないけど変われてきた気がするんです。美羽さんに出会えたから、僕は変われたんです。そして…変わりたいと思ったんです。まだまだな僕だけど、今は幸せです」
 その声が耳に優しすぎて、苦しくなるぐらい胸が締め付けられて、美羽は何故だかわからないけれど、涙が出そうだった。
「美羽さん?」
「私も…兼一さんと出会えて、本当に良かったですわ」
 泣きそうな顔で、でもそれはとても嬉しくて、思わず笑顔が浮かぶ。
「本当に…」
―――貴方に会えて良かった。


 いつか、こんな日も変わってしまうことがあるのだろうか。
 こんな風に笑いあったりふざけあったり、いつも傍にいることが当たり前だと思っている日が。
 でもきっとそれはそう遠くない未来に、必ずやってくるだろう。
 変わらなければいいと、思ってしまう。
 だけれども、変わればいいとも思ってしまう。
 こんな風に話したり歩いたり、それが別の意味を持ってしまうことを、望んでしまう。
―――それが一体どんな風に変わるのか、何を望んでいるのか、わからないけれど。
 でも。
 この心に覚える温もりも、仄かに早まる鼓動も、意味があるのだと思えてならないのだ。
 だから…それは徐々になのか、突然なのかわからないけれど、必ず変わっていくものなのだろう。

「僕にとって美羽さんは大切な人なんだ」

 兼一の言ったあの言葉に秘められた思いを、その意味を、どことなくわかっていた。
 その中にある温かさが伝わっていた。
 だからこそ、そうなる日も来るだろうと気付いていた。


「これからもずっと、こうして一緒に歩けたらいいですわね」
「!」
 美羽の言葉に振り返った兼一は、一瞬だけ目を瞬いて、それから彼女を見詰める。
「そうですね」
 そう言って兼一が浮かべた表情は、今日一番の笑顔だった。


 貴方と歩くいつもの道で、手をつないで、微笑み合って。
 その心のぬくもりを伝え合える日は来るだろう。
 毎日、毎日、いつまでも。

 そう、いつかきっと。



END

 

 


甘いっす。
一昔前の少女漫画的ラブストーリーって感じの雰囲気で頑張ってみました。
書いてるこっちがむずがゆかったよ!

やっと書きたかった感じの話しが出来上がって自分でも嬉しいです。
中身の質の上下はこの際、抜きにして…って言うか抜いてください、まさに自己マンの世界です;

いつかきっと、幸せな恋の終着駅に着けるといいね、兼一くん。
今まで各駅か鈍行みたいな長い道のりを来たけれど、その駅で君たちが乗り換えるのは愛へと向かう特急だよ。
さあ、旅立ちたまえ!(おまえ、誰だよ的な文章だよ。爆)

あ〜久々にほのぼのしたの書いたら調子が可笑しいよ。
可笑しい人になってるよ。
別にこういう砂糖吐きそうな恋愛がしたいわけじゃないので。
「私もあんな純愛にときめいた頃があったわ〜」といって某韓国ドラマにはまってるわけでもないですから。笑。
(どちらかと言うと「美しき日々」や「ボディーガード」の方が好きだじょ…え、そういう問題じゃない?)

2004/9/26 「史上最強の弟子ケンイチ/いつかきっと/兼一&美羽」 by.きめら

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