京極堂 百鬼夜行 雨音(榎/関)

 

 その日はひどい雨だった。
 昨夜から振り出した雨は朝方になってもやまず、10時を過ぎた今も衰えなかった。否、雨脚は一層強くなってきている。どんよりと厚い雨曇に覆われた空からは日の光は全く届かず、昼間だと言うのに街中が暗く沈んでいる。嵐とは違う静寂、じっとりと湿った空気が手や足や身体中に絡みつくようで、いつも以上に動くのが億劫だ。
 一言で言えば、嫌な日だった。
 関口巽はその日、榎木津の探偵事務所の一室にいた。一室と言うが…そこは榎木津本人の寝室である。
「まいったな…」
 呟く声がかすれている。
―――夕べ、あんなに降るなんて思わなかった。
 傘を持たずに出かけると、これだ。榎木津のもとに辿りつく前に、案の定振り出した雨を浴びて、不覚にも以前から引いていた風邪を拗らしてしまったのだ。
 咳が出る。頭が朦朧とする。熱かもしれない。
 外は今も雨が降り続いていて、窓に幾筋もの細い跡を残して散っていく。ある意味、幻想的で美しい。
―――嫌な日だ。
 雨と言うのは情緒ある風流な歌人が詠うからこそ芸術的なのであって、無粋な人間にとってのそれは、ただ憂鬱にさせる材料でしかないのだ。
 関口は…自分がその『風流な』職業の小説家であることを棚に上げて、窓の外を眺めた。
 こんな風に、息をするのも億劫な日は、たぶんあの時以来だ。
―――あの時…?
 あの時、自分はどうなってしまったのだろう。頭の中にはもやがかかっているようで、はっきりとは思い出せない。でも、確実に忘れてはならぬ何かがあった。
―――嫌な思い出が…
 そう。それは、はるか昔…関口にとって、はるかと言っていいほど遠く感じる過去の、まだ学生だったころの記憶。いつものように鬱を抱えて、寮の一室にただ呆然と座っていた。
 傍らにいたのは、京極じゃなくて…もっと大人数で…ああ、笑っていた。
―――思い出しそうだ…
 とても、嫌な気分だった。たぶんそれは、思い出したくない類の思い出なのだろう。
―――榎さんのせいだ。
 昨夜の酔った榎木津は、いつものふざけかたではなかった。和寅が止めてくれなかったら、たぶん榎木津の図に乗った悪戯はエスカレートしていき…思い出すと怖い。何故怖いと思ったか分からないけれど。
 夕べの記憶が一瞬、するりと過去の記憶と重なる。背の高い数人の男、笑い声、体に触れる手…
 だめだだめだ、思い出すな、と警告音が脳裏にけたたましく鳴り響く。
―――ああ…
 関口はそう言うときの自己防衛法を知っている。忘れて眠れ…ただそれだけだ。

 

―――落ち着いて本も読めやしない
 そう文句を言いながら、店の主人はいつもの様に店を閉めてしまう。実に商売っけのない本屋なのだ。
 京極堂…中禅寺秋彦は、突然の訪問者を母屋に招いた。訪問者は、実に奇抜なファッションセンスの、美しい男だった。
「不機嫌だ。実に不愉快だ」
 榎木津は珍しくそう呟いて、その家の主人…中禅寺になんの許しもなく畳の上に寝転がった。いや、いつもそうなのだが。京極堂はさも嫌そうに眉根をひそめて、険悪な顔つきになる。
「なんです、榎さん。うちに来る早々」
 榎木津はふてくされたように天井を眺めながら答える。
「猿が僕を拒む」
 京極堂は一瞬…ほんの一瞬唖然として、榎木津を見る。
「そんなこと…」
―――そんなこと、僕に言ってどうする…
「榎さん、僕にどうしろというんですか。大体そんなくだらない。関口君の面倒なんて…」
「見てるじゃないか。ずっとだ。おまえが猿をいつまでも独占しているからだ。いいか、この僕が猿に袖にされたのだぞ!こんなことあって良いのか!」
 いや良くないッ!と叫ぶや否や、榎木津は飛び起きる。
「良くないって…僕には関係ない話ですね」
 京極堂は無駄なことだと分かっていながら、平然としてタバコをくわえる。榎木津は火をつけている京極堂…正しくはその少し上に目を向けて、虚空を睨んでいる。京極堂は厭な気がした。
「あいつ、雨が余程嫌いだぞ。おまえだって知ってるじゃないか」
「だからなんです」
「…寝言で、泣いてた」

 大学時代の京極堂…中禅寺が実家に戻っているときに、その事件は起きた。
 苛められ気質なのはなにも昨日今日のものではない。
 大学生だったときも同様で、関口はなにかと他学生からのちょっかいを受けていた。中には辛辣なものもあって、その度に京極堂や榎木津が(ある意味)守ってやっていた。それを…いつもいるはずのルームメイト不在に、3、4人の男子生徒が良からぬことを考えた。鬱になりかかっていた関口が無抵抗なのは知られている。だから男たちは、猥褻な行為を強要しようとしたのだ。
 結局は、たまたま部屋の前を通った榎木津がそいつらを再起不能なまでに叩きのめして、万事事を得なかったが。

 関口は無意識のまま、あのときの恐怖を思い出している。
「雨音を聞きながら褥を重ねる…これほど情緒あることはない!」
 嫌がる関口を部屋に連れ込んだ榎木津が叫んだ言葉だ。しかし、関口は恐怖に慄いて、蒼白な顔を向けたのだった。榎木津は驚いて…関口の記憶を読んだ。
 京極堂は今でも、そのことを悔やんでいる。関口が無事であったことは心から喜んだが、それを助けたのが自分ではなく、榎木津であったことがくやしいのだ。
「じゃあ、僕がもらってもいいんだな」
「関係ありません」
 それでも、自分が関口を思う気持ちは秘密裏だったので強がる。例え榎木津に全てばれていたとしても、そうするより他京極堂には手段がないのだ。何故なら、関口の気持ちは誰かに束縛されてはいけないから…希望的観測で、自由であることを京極堂が祈っているのだ。
 自分のものでないのと同じように、誰かのものではないのだ、と思いこむことで暴走する自分を止めている。
「ふうん」
 榎木津は少しだけ複雑な表情を浮かべると、すぐにいつもの自信たっぷりな笑顔を浮かべた。
「わかった」
 悠然と立ち去る榎木津の後姿を見つめ、京極堂はなにも言えなかった。

 

「どうだ、猿の様子は!」
 榎木津は自分の事務所のドアを乱暴に開けると、入ってくる。
「あ、お帰りなさい、先生」
 和寅は台所から顔を出すと、難しい顔で榎木津を迎えた。
「どうだ、じゃないですよぅ。関口先生、さっきからずっとうなされっぱなしで…熱もまだ下がらないんです」
「ふん、藪医者め」
 そんなことないですよぅ、ちゃんとした大きな病院につれて行ったんですから、と和寅は情けない声を出す。
「それならなんで、関が治らないんだ。藪だ!藪に決まってる!」
 榎木津は大股で居間を突っ切り、乱暴に自室のドアを開けて入っていった。
 和寅は呆然とその背を見詰め、ため息をついた。

「…中禅…寺…」
 熱にうなされて、関口が呟いている。
 助けを求めるように出された手を握り締め、榎木津は優しくその手に口付けをした。
「僕がついてる…」
 関口の、閉じられた両目から涙がこぼれた。
 榎木津は枕元にあったタオルで、関口の額の汗を拭いてやる。その横顔を見詰めながら、ひどく腹が立った。京極堂は…どうして関口を無理に無視しようとするのだ。こんなにも心細げに泣いているのに。自分がどんなに抱きしめてあやしても、関口の悲しみは消えやしない。それは、あの時もそうだった。
「まったく、揃いも揃って不実な下僕だ」
…そんなに悔しいなら、今ここですぐに関を抱きしめてやるといい。
 大学時代のことをいつまでも悩んで、守ってやれなかったと関口に心の中で謝りつづけるだけの京極堂が、榎木津には腹が立つ。そんなことで関口の心の傷が癒されるわけもない。
…いや、あいつはどこか心の中で、あの男たちと同じように関口を陵辱したい気持ちがあるから後ろめたくて冷たいフリをするんだ。
「馬鹿だ」
 馬鹿だ。僕なら、関が嫌なことを全て忘れてしまうほど優しくしてやるのに。そんなことも思いつかないなんて、本当に馬鹿だ。
「中禅寺を呼べ!」
 榎木津は寝室から出てくるな否や、和寅を呼びつけた。
 しぶしぶ和寅が電話をかける。そして…ますます嫌な顔をした。困っている。
「…関係ないって…」
「貸せ!」
 榎木津は受話器を和寅の手から奪い取ると、怒鳴った。
「いいからつべこべ言わずに来い!」
 向こうからは苛立つほど静かで、どこか怒気の含んだ声が帰ってきた。
『僕には関係ないですよ。あなたが関口君をどう想っていようと、僕をどう思っていようと、関係ありません。僕を厄介ごとに巻き込まないで下さい。僕はこれから本の整理をしなくちゃいけない』
「おまえは嘘吐きだ!この本馬鹿!いつまで意地を張るんだ。もう…どうなっても知らないぞ」
『どうするかはあなた次第でしょう?病気で抵抗できないほど弱っている関口君を犯すのも、あなた自身が決めることだ』
「見損なうな!」
 榎木津は呟くように、言った。
「僕は、おまえなんかより、よっぽど優しくて紳士だ」
 がっしゃん!と乱暴に電話を切る。
 和寅が首を竦めている横を通りすぎ、榎木津は寝室の関口の元へ戻った。
 静かにドアを閉めると、その顔を見詰めた。
「…なんで、あんな奴に惚れたんだ?」
 関口は答えない。ただ、与えられた薬で今はぐっすりと眠っている。

 

END

 

 


雨=憂鬱=厭な過去 っていう図式が成り立ちつつある(笑)
別に私は雨が嫌いでも、増して雨にまつわる嫌な思い出があるわけでもないんですが。
映画サイトに載せてる「三銃士」でも、雨の夜に嫌なことを思い出して苦しむダルタニャンを書いてます。

過去に酷いコトがあったってのは説明で入れてますが、描写はしていないんで…
裏じゃなくてもいいですよね?<弱気

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