京極堂 百鬼夜行 落葉樹(榎木津)

 

 懐かしい…そんな言葉が彼の脳裏によぎった。
「ここは、変わってないのか…」
 夏の面影などまったくと言って良いほど失った、涼やかな秋の風が彼の色素の薄い柔らかな髪を揺らして行った。
 ここはかつて、大学と寮とを行き来するために用いた近道の公園。遊歩道の脇に立ち並ぶ木立が、今はもう、葉を黄色く染め始めている。
 たまに行き交う人々が、彼をちらり、と見て去っていく。
 彼は珍しく自嘲気味に微笑んだ。
「まったく…うざったいことこの上ない!」
 彼はそう毒吐いて、左目を覆う様に巻かれた、真新しい包帯を指で軽く叩いた。
 この痛々しいほどまっさらな、包帯の様に…街も無垢な新しい顔を掲げている。
 街はとっくに戦争の傷跡を隠して、綺麗になっている。彼が入院生活にうんざりしている間に、東京は生まれ変わったのだ。…上辺だけは。
 とはいえ終戦間も無い日本には、今だ傷痍兵だった人々が歩いている。人目で分かるような粗悪な義具を付けて、痛々しい包帯姿で、今も歩いている。だから、彼が顔に包帯を巻いていたとしても、さして物珍しいものではないのだ。
 それでも人々が彼に注目するのは…その美貌のせいだろう。その視線は同情ではない。愚かしい戦争の傷を負わされていて尚、美しく気高いその姿が、人々を魅了するのだ。

 その日、榎木津礼二郎は病院から退院したばかりだった。焼夷弾のせいだ。
 以前から、視力は弱かった。しかし、今ではもう片目は殆ど見えないだろう、と担当医は言う。
―――だからなんだ。
 だからといって、完全に見えないわけじゃない。今だって、こうして片目だけの平行感覚で、真っ直ぐ歩けるじゃないか。それに…あいつの顔だってまだ見れるんだ。だから平気。
 木々の葉が揺れる。心地よい風がそよいでいく。
―――本当に懐かしい場所だな…
 あの日、ここで初めて彼は、彼にとって『大切なもの』を見つけた。

 ひとつ年下とはいえ、まるで年端も行かない少年の様に華奢で弱々しかった四肢。子供っぽさを残した不安げな顔。定刻に間に合おうと駆けて行く。
 肩が触れた時、彼は恐ろしく怯えた表情で頭を下げて、また駆けて行った。榎木津は呆然と、去っていく彼の後姿を見詰めて、しばしその場に立ち尽くしたものだった。
 初めて見つけた、運命の相手…そんな馬鹿げた思いが駆け巡った。考えた事すらなっかたのに。たった一瞬の出来事だったのに。
―――校内で再会したあいつは、案の定忘れていた。
 それでも…あの時の思いを、榎木津は忘れていない。忘れられない。
 見つけた時の喜びと、失った時を想定して生まれた不安。そんな感覚すら、初めて感じた。それは、この左目の視力を失った時にさえ持ち得なかった不安だった。
 毎日大学へ通うこの道を共に歩いていても、不安はずっと付きまとった。細い肩を抱き寄せても、その唇に口付けをしても、ずっと。
『…榎さん…』
 切ない声で呼ばれた時も。

―――なんて不公平。

 片時も離れずに守ってやった。四六時中彼のことだけを考えて、愛していた。
 それなのに…おまえは僕以外の、あいつにも微笑むんだな。
 何もかも恵まれて、手に入らないものは無い…失う事の怖さも知り得なかったような生活。醜い嫉妬心なんて無縁だった。そんな彼の心を乱したものは、他ならないその年下の頼りない学生だった。
 彼が中禅寺に向ける友情も、その微笑みも、全て独占したかった。見詰める先が自分であって欲しかった。
 いや…そうであるという確信は持っている。
 関口が榎木津だけを、どんなに中禅寺が求めたとしても、榎木津だけを見詰めている事実がある。目移りなど、していない。
 だけど…友情すら、榎木津は嫉妬してしまう。

 彼はゆっくりと歩を進めた。大きく息を吸って、肺に新鮮な空気を入れる。…消毒液臭い病院の空気など、もう真っ平だ。
「あいつがいないから…」
 時折片目が疼く。仕方ない事だ。
 見舞いに来た日に、自分の姿を見て泣きそうになっていたあいつ。
 でも、今度は安堵で微笑ませてやる。

 眩しげに見上げると、まるで日に透ける彼の髪の様に、淡く色付いた黄色の葉が秋の陽光に煌いていた。

 

END

 


今思うと、昔書いてたものって殆ど短めです。
これは大学前の並木道を通り切る間の話なので、短いのは時間的にも当たり前なんですけどね…
色付いた木々の通り道、その情景を思い浮かべながら書きました。
そしたら、ちょっとセンチな話になってしまいました(笑)

 

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