眩しいくらいの日差しをキラキラとはね返しながら、水は深い青を湛えて波打っている―――快晴には珍しく、今日は風が凪いでいた。白い帆を畳んで、レイチェル・アリア号は波止場に停泊していた。
そのヨットの持ち主であるリチャードは、典型的な海好きの若い金持ちで、いい色に焼けた肌とたくましい身体付きが自慢だ。それなのに最近は事故のせいで誰も海に出たがらず、シーズンだと言うのにビーチの方も静かなものだった。調査が済むまで新たなアクシデントが出ないよう当局から自粛を促す勧告令が出ているのが理由である。
多くの観光客を楽しませるここの海は、今年に入ってからの事故多発によって閑散としている。多くの人間が集えば事故の1つや2つあるのは当然ではあるが、それにしては異様な事故の多さだった。そのほとんどが死亡事故で、原因は不明。何しろ何もないところで突然船が沈む、浅瀬で次々と人が溺れる、明らかに船では誰も近付かない岩場へ吸い寄せられる様に向かって暗礁する…事故前後の被害者達のほとんどが理解出来ない行動をとっていた。無惨にも魚に食い尽くされた遺体も多く、その中にはリチャードの知人もいたが今では帰らぬ人となって、何があったのか聞く術もなかった。
彼は今年中の出番がなさそうな自分のヨットを切なげに見上げて、それから艀に移ると陸に向かう。不意に冷えた風が吹き抜けて行くのを感じて、彼は海を振り返った。だが、どんなに見渡しても海は変わらず、ただ静かに小波を湛えて広がっているだけだった。
気を取り直してリチャードが再び陸を向いた時、それは起こった―――見えない強い力で足を掴まれ、彼は勢い良く海に引き摺り込まれた。パニックになりながら暴れても、その何者かは変わらず彼を羽交い締めにし、深く水底へと降りていく。
窒息で気を失う前に、リチャードは美しい歌声を聞いた気がした。それが、彼の最期に聞いたものだった。
やがて海は元の静けさを取り戻し、何事もなかった様に波を湛えている。レイチェル・アリア号が波間に変わらず揺れていた。

 

SUPERNATURAL SEASIDE 1

 

「人魚?」
サムは食事する手を止めて、呆然と聞き返した。それを受けて、ディーンは答える。
「そうだ。人を惑わし殺す、水の魔物だ」
何処から情報を仕入れて来たのか、得意気な顔をするディーンをサムは黙って見詰めた。まさか、人魚の話題を持ち出すとは―――絵空事と彼なら一笑に伏してしまいそうなものだと言うのに、その逆の態度は些か不思議な感じを受けた。
二人は今、狩りの標的を探しつついつもの様に旅をしている最中だ。その合間に、ダイナーでコーヒーと味気ない軽食を取っている所だった。そこに、思いも寄らない魔物の話題である。
本来、伝承に残る人魚は物語や歌の文句に出てくる様な色っぽいものではない。むしろおぞましい姿と獰猛な性質で恐れられている。人間大のピラニアかワニと言ったところか…ただ、獲物を誘う鳴き声は歌う様に美しいとも言われる。それがいつしか、海辺に現れる美女のイメージを作ったのだろう。
「人魚、ね…」
「どうした?」
「いや、ディーンがそんな事を言うとは思ってなかったから」
「ユニコーンはいなくても、人魚はいるぞ。似た様な卷族ならライン川のローレライとかアジアの比丘尼伝説、それに…」
「ギリシャのセイレン?」
「そう、それ」
言葉を繋いだサムに、ディーンは我が意を得たりと満面の笑みを溢す。どうやら自慢げなのは情報を掴んで来た事だけではなく、不得意な調べ物もしてきたからの様だった。
「短期間に水難事故が多発している場所があるんだ。行ってみようぜ」
もっともらしい言い種にサムは「いいよ」と同意する。
「でも…」
「でも?」
言葉を切ったサムにディーンは注視するが、彼は不意に皮肉な笑みを浮かべると言った。
「ディーンの目的は水着の女の子だろ」
「…言ってろ、クソガキ」
図星らしいディーンの悪態に、サムは堪らず吹き出した。

 

サムとディーンが乗ったインパラが到着した時にはもう、綺麗な浜辺は黄色いテープと制服姿の人々に支配され、それに遺体を入れる為の黒い袋も用意されていた。野次馬の人々と慌ただしく焚かれるカメラのフラッシュが、この場所をより一層異様な情景に仕立て上げている。
「一足、遅かったか…」
「また事故があったんだね」
浮かない表情で二人は野次馬に混じり、警察のテープの向こう側を覗き込む。
被害者のリチャードはここ近郊の都市部にある新栄企業の役員だった。ベンチャー気質の会社らしい、若くして成功を収めた人物である。健康で丈夫な身体も自慢だったらしい。ヨット好きで毎週末には乗っている様な泳ぎも得意で海に慣れた男が、掴まる桟橋の支柱や艀の柱がある場所で溺死したのだ。何か普通では有り得ない、嫌な予感が拭えなかった。
「何があったんだろう…どうやって?」
「本人には聞けそうにないな」
ディーンの不謹慎なジョークにサムは顔をしかめ、たしなめる様に睨む。するとディーンは誤魔化す様にくるりと背を向けた。
「どこ行くんだ?」
「とりあえず、出来る分から聞き込みだ」
彼は答えて、先に歩き出す。
サムは後を追って足を踏み出したが、ふと日差しの陰った空を見上げた。いつの間にか暗く重たげな雲が立ち込め、底抜けに明るかった空を覆い始めている。今にも大粒の雨を降らせそうな天気は、何か不吉な事が起きそうな嫌な予感を覚えさせる空模様だった。

案の定降り出した雨は次第に激しさを増し、あっという間に視界すら遮る程の酷さになった。店から駐車場の車まで行くのも躊躇わせる程の雨足で、二人は否が応にも足止めを食らっている。
「せっかくシーズン中の海に来たってのに、これかよ」
ディーンはぶつくさと呟きながら、手元のコーヒーカップを拗ねた様に見下ろしている。それをあえて無視して、サムは言った。
「セイレンの歌だけど、ギリシャ神話にあるように耳を塞いだり他の音に聞き入ってると助かるのかな?」
「オルペウスの竪琴か?」
「うん。魔物として描かれる話の中じゃ、彼らは退治出来ない。耳を塞いだり、代わりの音楽を聞きながら、せいぜい無事に逃げる話ぐらいだよ」 サムはギリシア神話や抒情詩オデュッセウスの例を挙げる。人魚が死んだとか殺されたとか言う話は後々のお伽噺や昔話に出てくるが、真偽は定かではない。
「アジアの人魚伝説だと、陸に上げて首を切り落とすらしいぞ」
ディーンは興味も無さげに呟いた。不老長寿の妙薬だと言うのは眉唾モノだが、伝えられる一番リアルな殺り方はそれだった。
「人魚を釣り上げるの?」
サムは思わず聞き返す―――相手の真摯な反応に彼は少なからず驚き、からかった。
「網でもいいんじゃないか?」
「ディーン!真面目に聞いたのに、まったく」
「いや、陸に揚げればこっちが有利だ」
「でもセイレンだったら半人半鳥だよ」
神話では、アフロディテの怒りで怪鳥に変えられたとも言う。そうなるとインドのガルーダを彷彿とさせられるけれど。
「スターバックスの看板は人魚だよな」
ディーンの馬鹿げた言葉にサムは呆れた溜息を吐いた―――だが、何かを思い出す様に気付く。
「正解かも、ディーン」
「何が?」
「人魚だよ。セイレンは自分の姿を悲しんで海に身を投げてから海の魔物になった。それから人魚の姿で描かれる様になったんだ」
スターバックスはともかく、ヨーロッパの古い紋章や伝承の絵画にもその姿は描かれている。そして、多くの人魚伝説の元になったのだ。
だが、ここで結論を出す事は出来なかった。実地調査もまだしていない今は、あくまで仮定と推測でしかない。
会話が途絶えてしばらくすると、暇を持て余したディーンは滴に濡れる窓を見やると独り言を呟く。
「止みそうにないな、この雨」
うんざりした面持ちの兄をサムは眺めた。
「それ、仕事が進まないから?それとも目当ての水着の女の子が見れないから?」
「黙ってろ」
サムは自分が言った皮肉で不機嫌になるディーンの様子に思わず笑いかける。
今はそんなくだらない事で暇つぶしするより他、出来る事がなかった。人目のある所で事故の資料を広がる訳にはいかないだろう。ザアザアと降り頻る雨音を聞きながら、サムはぬるくなったコーヒーを口にする。
ふと見やれば、店内には彼らと同じく雨を避けて足止めされたままの人間が何人もいた。彼が目を向けた先で、カウンター席に腰掛けた作業着姿の中年男性は近くにいる店主に話かけていた。
「参ったよ、これじゃあ仕事にならない」
「港の仕事じゃ仕方ないね。こっちは雨のおかげで、逃げ込んで来る客に万々歳さ」
「そりゃ言えてるな」
男は笑った後、不意に真顔になった。
「そう言えば、ジェニファーはどうしてる?」
「ああ、この間、溺れかけたあの子か?しばらくは海辺にも近付かないだろうよ」
「そうだろうなぁ、可哀想に。まったく、最近はどうなってるんだかな、俺達の海は」
それからしばらくは会話もなく、BGMのラジオ以外は静けさが戻る。
サムはディーンに囁いた。
「生存者がいたんだ」
「そりゃあ、新聞には載らないよな」
記事になるのはもっぱら死者が出るか多大な被害が出た時だけで、溺れかけた女の子の事など載るはずもない。
「行ってみよう」
サムは珍しく自分から切り出し、ディーンは頷く。
店を出ると、夜まで続きそうな勢いだった雨がいつしか止み、嘘みたいな青空が広がっている。車に乗り込むと、彼らは先程の客に聞いた住所へ向かった。

「何か覚えてませんか?どんな事でも構いません…理解し難い事とかでも」
サムはもっともらしいハンディレコーダーをテーブルに置き、手には手帳とペンを持って彼女に言った―――甘栗色の髪をした、"若干18歳"のジェニファーが彼を見詰めている。
話を聞くに当たって、二人がセレクトしたのは新聞記者だった。今なら多数の記者がこぞって町中を取材して回っているはずだし、事件について調査しても怪しむ人間もいないだろうと踏んでの事だ。
だが、とサムは思う。
―――彼女の何処が可哀想な"女の子"なのだ。
確かに危うい経験をした彼女は可哀想だが、店での話からはずいぶん予想とかけ離れている。呼鈴に顔を出した彼女に、妹は?とうっかり尋ねかけそうになったくらいだ。
それに、厄介なのは先程から質問するのをサムに押し付けたまま、いやににこやかな顔で黙って彼女を見詰めているディーンの存在である。彼女の方も若くて顔のいい"記者"に興味津々でいる様だから、益々厄介だった。また妙なスケベ根性を出さないで欲しい、とサムは切に願う。
気を抜くと直ぐに不信感を露にしそうで、サムは改めて表情を引き締めるとジェニファーに尋ねた。
「噂で聞いたのですが、溺れる前に不思議な歌を聞いたとか?」
その言葉に、一瞬で彼女の顔色が変わるのを二人は見逃さなかった。
「馬鹿みたいだと思うでしょう?でも、確かに聞いたわ。今でも信じられないけど、とても綺麗な声で…歌かどうか分からないけど歌ってるみたいな鳴き声よ。聞いてると心地良いって感じたわ」
思わず顔を見合わせた彼らにジェニファーは苦笑する。
「やっぱり信じられないわよね、死にそうな時の幻聴か何かだって」
「いえ、そんな…」
サムは慌てて、肯定も否定もしない曖昧な返事をする。
「その時、何か見ましたか?」
「さぁ…必死で水面に上がろうとしてたから、覚えてないわ」
「見えない力で引き込まれたとか…?」
「変な事聞く人ね。でも、そうだったかな。掴んで来る手が見えた気もするし、そんなの有るわけないとも思うし。鱗だらけの手なんて」
サムはもう一度ディーンと目配せした。
彼女の証言は彼らの憶測を更に後押しするには充分だった。聞いた者を恍惚とさせる魔物の歌、そして度重なる水難事故―――水妖の怪奇を確かに思わせる。
サムはディーンが彼女にちょっかいを出さない内に、と席を立った。
「それじゃあ、僕達はこれで」
「もういいの?こんなので?」
「ええ、もちろん。貴重なお話をありがとうございました」
最後にコーヒーのおかわりを勧められるのを丁重に断って、彼らはジェニファーの家を早々に出た。
案の定、車に戻ったディーンが不服そうに口を尖らせるのをサムは気付き、深い溜息を吐く。
「ディーン…」
「分かってる」
サムが小言を言い始める前に、ディーンは遮った。

 

つづく

 


2007/10/16 BLOG掲載

 

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